第35総会期第四回信仰職制委員会が二月十四日に教団会議室で行われた。
式文改訂小委員会に対して当委員会からの問、「新しい式文作成に当たっては、礼拝指針の作成を要請したはずだが、『試用版』では不十分ではないか」に対する岡本知之式文改訂小委員長よりの報告を聞いた。同小委員会は一九九八年の設置以来、式文の作成と共に、その詳しい解説を作成する方向で作業してきた。十全な意味での「礼拝指針」の作成はむしろ信仰職制委員会の課題であると理解している。既に出版された式文は「試用版」であるから、これに対する諸意見を受けて、解説の部分も含めて今後検討し、教団の教会性が表される式文を作成していきたい、と表明された。
前回、総幹事より『信じる気持ち-はじめてのキリスト教』についての検討を要請する諮問があった。これは教団内任意団体からの要請を総幹事が受けとめて当委員会に諮問したものであるが、その後、同団体よりの要請取り下げがあって、今回総幹事がこれを取り下げるとの申し出があった。諮問の取り下げは受け入れることとしたが、前回からの継続で出版局のあり方をめぐる協議を深めた。
教規五十条③には総幹事が出版局を「その所轄のもとに置く」とある一方で、出版局規定第三条①では総幹事は出版局の一理事となると定めるなど、総幹事の位置付けが不明瞭であり、その結果、出版局の書籍出版における意思決定の仕方が曖昧となっている点が指摘された。
前回の委員会では、教団の「教会暦」制定は「式文」の第一部に定められているように礼典に関する重要な事項であり、教規四四条の信仰職制委員会がつかさどる事項の(3)「礼拝、礼典および諸儀式に関する事項」に属すると判断した。
このことも含め、出版局に関する諸規則の見直しを、次回常議員会に提出される「機構検討委員会」の答申を見た上で、「教規の検討点」として当委員会の課題とするかどうかを判断することとした。
次回委員会は七月三日~四日の予定である。
(大村栄報)
▼説教テープを再生したら、前後の讃美歌も入っていた。久し振りに自分の讃美歌を聞き、滅入ってしまった。昔に比べて大分上達したと自惚れていたが、思い込みだったらしい。▼「君の歌は犬吠埼のネギだ」と揶揄されたことがある。その意味は、「銚子(調子)の外れ、(ネギには)ふしがない」。「礼拝のテープが楽しみです」と言ってくれる会員もあるが、もしかして、下手な漫才よりも笑えるという意味かも。▼次の週、しかし、歌わないわけにはいかない。一歩下がり小さい声で歌ったら、余計に歌えない。下手だからこそ、ちょっとでもやり方を変えると具合が悪い。開き直って、普段通り大声で、銚子の外れで…何とも。▼「信仰なくし て信仰を学ぶことは、節のない歌をうたうようなものだ。…『言の葉の木』、ル・グゥイン」。讃美歌は勘弁して貰うしかないとして、信仰なくして福音を語っても、伝道は出来ない。教団の伝道が奮わないについては、教団が、教師が信仰(告白)に生きているかどうかが問われる。
使徒言行録2章22~32節 西原 明
今日、全世界の教会が「主はよみがえられた」と讃美の声をあげています。
しかし、最初、主イエスの十字架の死に直面し、主から切り離された弟子たちは、主の復活を信じることができず、死の怖れに覆われて沈黙していたのです。
だが、弟子たちそれぞれの情況に応じて現れてくださった復活の主ご自身が、彼らの実存を根底から揺り動かし、新しい命へと再創造されたことは、その後の使徒たちの言行が証ししています。聖霊降臨の日、使徒たちは「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は死の苦しみから解放して、復活させられました。わたしたちは皆、そのことの証人です」と宣教し始めたのです。
*主がともにおられる
ユダの後継者を選出するとき、ペトロは「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間…いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです(使徒1・21~22)」と言いました。
宣教活動の困難に直面するパウロは「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる(使徒18・9~10a)」と、復活の主が現れ語られたと言います。
そして、マタイによる福音書は、キリストのご生涯とお働きを「主がわたしたちと共におられる」という重要な証言で括っています。
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である(マタイ1・23)」。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ28・ 20)」。
それはまた、弟子たちが信仰の父祖たちから受け伝えた信仰でもありました。
「主が言われた。『見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった(創世記28・15~16)』」。
死の不安に閉じこめられた弟子たちの中に復活の主イエスが現れ、いつも弟子たちと共にいてしてくださった通りに、共に歩き、聖書を解き明かし、食事を共にし、平和をもたらしてくださったとき、命の息・聖霊を吹き込まれ、新しい命へと再創造された弟子たちの「心が燃え、目が開け」たのです。
*死の淵の底で
わたしの住まいに「われらは皆、主の復活の証し人」という書が架けられています。わたしが神学校を卒業し最初に遣わされた兵庫県の高砂教会で、八年間の求道を経て受洗されたAさんが、受洗四〇年を感謝して書いたものです。
若い母親だった彼女の求道生活は、文字通り死の淵の底からの叫び求めでした。しかし大切な「主イエスの復活」がなかなか分からない。
Aさんが、日本脳炎で生死の境に陥った中学生の息子の片手を握りしめて祈るそのとき、息子のもう一方の手を握っている誰かが、姿は見えぬが、確かにおられた。「息子は死の床から生かされました。わたしは復活の主イエスが今もわたしと家族を生かしてくださっていると信じます」。Aさんの信仰告白です。
わたし自身の証しを加えることをお許しください。
神学校を卒業したとき、わたしは「主イエスの復活」について確信を持てないままでした。わたしの存在が主の復活によって揺り動かされるまでにはなっていなかったのです。
高砂教会は五〇年間無牧で、近隣諸教会に支えられていました。謡曲の白砂青松の地から工業地帯に変貌する中で、労働者伝道のために新しい会堂を建て始めていました。その建築費が集まらず多額の借金をかかえて教会員が動揺していると着任半時間後に知らされたのです。若造にはどうしようもない金額です。
その一瞬、主イエスがわたしをここに連れてきたからには、野垂れ死にさせはしまい、そうだ、五〇年間の無牧中も主イエスがここで生きて働き続けておられたのだ、という思いに襲われました。
主イエスがわたしと共にいて、重荷を共に担ってくださる!「主イエスの復活」が四方八方からわたしの全身全霊を揺さぶりました。
教会員が皆、それぞれの力に応じて主イエスと共に働きました。インマヌエル・アーメンが合言葉でした。教団、教区、諸教会の支援もあり、十年で建築費を完済できました。
信仰のない無力な者を、復活の主がおとずれて共に働いてくださる。この時与えられた信仰が、その後のわたしの全てを生かしています。
*主の平安に包まれて
隠退後の脳梗塞入院も、その後、二度の大腸がん手術で、脳梗塞罹病者の故に全身麻酔から覚めない危険があると告げられた時も、更に再度の転移を高齢だからこれ以上の治療はせずこのまま受け入れようと主治医と話し合ったときも、「わたしは復活であり、命である」と言われる主イエスの平安に包まれて平安でした。
主の祈りを祈ったあと「キリストがわたしと共にいてくださいますように。わたしの内に、わたしの後ろに、前に、右に、左に、わたしの上に、下に、いてください。わたしが寝るときも起きるときも、そして、わたしが地上から旅立つときも、キリストがわたしと共にいて下さいますように」(アイルランド開拓伝道者パトリックの祈り)と、祈ります。
「キリストがわたしの下にいてくださいますように」は、「キリストが陰府(よみ)に降られてわたしと共におられることを忘れませんように」という祈りです。
主の復活を信じきれないわたしには無力と行きづまりを、Aさんにはさらに厳しく死の淵を、主なる神が与え、復活の主イエスを全身全霊でお迎えできるように備えてくださいました。
今、復活の主の永遠の命にあずかっていらっしゃる皆さんも、それぞれの証しをお持ちでしょう。わたしたちは皆、主の復活の証人です。
使徒パウロと共に讃美しましょう。
「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。……どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
(隠退教師、シロアム教会協力牧師)
昨年十二月三日~六日、台湾新竹市聖経学院で台湾基督長老教会主催の会合が持たれた。人権宣言三〇周年国際研討会である。出席者はスタッフ二八名を含めて二三五名、国際と名付けられた会だけに十五ヶ国から代表が集った。
あの時、台湾基督長老教会(以下PCTと記す)が非常な苦難に立たされている台湾の国際的現状にあって世界に向けて発した人権宣言に大きな衝撃を与えられ、教団も目覚めさせられた。
この大会がいかに大切な意味を持つものであるかは歴代の総会議長・投獄生活を続けさせられた高俊明元総幹事らが講演をなし、アピールを発していたことからも充分伝わってきた。
私も三〇分のレスポンスを担当させていただいたが、同胞のために苦しみ闘いを引受け、深い祈りと信仰に裏打ちされた勇気ある言動によって教団もどれだけ教えられ、励まされてきたことか、PCTとの生命的交わり、絆に感謝しつつ語った。
この人権宣言のスピリットを次世代に伝えんとする決意、国連やWHOに加われない孤立感、さらには民進党の歴史的敗北に終った立法院選挙の結果などを抱えつつ進もうとするPCTの歩みが良き結実を与えられんことを熱く祈るとともに、新たなる思いでさらなるPCTとの連帯、連携を求めて行くことにしたいと思う。
「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」とのみ言葉が想起させられた。
(教団総会議長 山北宣久)
地に足をつけて
機屋(はたや)商人の四人姉妹の次女として生まれる。先に姉が生まれたので両親は次こそ男の子、と期待されての誕生だった。両親の期待を裏切った事を肌で感じて成長する。それ故、ひねくれ、ひがみ根性たっぷりの性格に育った(本人の弁)。敗戦当時の中学校担任教師は、東京女子大卒業生であり、その人格的影響を強く受けて日本女子大学に進学した。そこでキリスト教と出逢い、弓町本郷教会に足を運ぶようになる。そして当時の田崎健作牧師から洗礼に与った。
日本女子大在学中は、学生YWCA の会長を務め、カンファレンスで日本全国を回って活躍する。大学卒業と同時に父親により実家に引き戻されるが、館林教会の前身となる働きをしていた金子牧師夫人と、農繁期に子どもを預かる季節託児所を立ち上げた。その伝から地域の学校長の裁量で、音楽の教師として採用される。しかし、キリスト者として未熟な私では「生徒を指導する事が出来ない」、と言う思いが強くなり、二年で退職した。その後、東京YWCA野尻キャンプの働きに転向するが、あんなに逃げ出したかった学校を離れると、逆に恋いしく思い出され、子ども達の顔が次々に浮かんでは消えた。
転機は、結婚後主婦となった時に与えられた。臨時で中学校の社会科教師として採用され、その後二七年間教師を勤めた。この時に、「現場を離れては勉強も出来ないし、信仰も生きない」という事を強く心に覚えた。
後藤さんのこの思いは、館林教会設立に尽力させ、今も教会長老と教会学校教師として、会計長老の息子さんと一緒にお仕えする力となっている。地に足を据えた信仰により、ひがみ根性の少女から主に賜を用いてい ただく喜びの人に変えられた。
今、教区の働きを通して感じる事は、牧師と信徒が同じ信仰告白に立ち、教会という現場にしっかりと御言葉を通してお仕えする事が成長の力となる事を心に強く受けとめている。
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