誰もが受け容れられる「サードプレイス」として
子ども食堂「そらのとり」 《長野県》
子ども食堂 「そらのとり」 をご紹介します。
子ども食堂の日には会場の松本教会に次々と子どもや親子連れが集まってきます。開場は午後4時ですが、学校帰りの小学生はもっと前に来て遊んでいることもあります。
台所は食事提供の5時にちょうど温かくできあがるように作るため、この頃が一番大忙しです。
5時近くには来場者が増えて、にぎやかになります。初めて来る子もみんなすぐに一緒になって遊び、「子ども食堂で新しい友達ができた」という子もいて、和やかな雰囲気です。集まってくる子どもたちは必ずしも家庭や学校生活が順調とは限らず、誰もが受け容れられる「サードプレイス」の必要性を強く感じます。
5時になると「食事が始まりますよ〜」とのスタッフの掛け声で、食事を受け取りに集まります。スタッフは「いっぱい食べてね」、「〇〇好き?」と声をかけながら渡します。多い時は80名もの参加者がいるのですが、スタッフは臨機応変に食事を分け合い、全員が満足できるように心を配ります。
食べ終わった子からまた遊び始めます。各々好きな遊びや、スタッフが準備した季節の工作やおやつ作りも楽しみます。保護者の方々は自分の子も他の子も区別なく見守ったり一緒に遊んだりしてくれます。
終了の7時近くになると、スタッフだけでなく参加者も自然に片付けを始めてくれます。「ここに集うみんなが、共に子ども食堂を作っているのだ」と思います。
また、そらのとりでは「そらのとりボックス」の活動もしています。子ども食堂の会場でも支援物資の配布はしているのですが、子ども食堂に来られない支援が必要な方へも支援物資を届けたいと考え始めました。
現在は市内の児童養護施設の卒園生7名に送付しており、来年度はさらに人数が増える見込みです。とても喜んでもらっており、今後も継続するつもりですが、子ども食堂と違い市からの交付金がないので、資金を寄付金に頼らなければならないことが難題です。
子どもの居場所としての子ども食堂と、支援が必要な方に届ける活動、その両方を大切にしていきたいと思っています。
(角谷久美子報/松本教会員)
地域に広がった教会の活動
子ども食堂「マンナ」 《兵庫県》
尼崎教会では2023年度より、「マンナ」として、月に1度、子ども食堂を行っています。「マンナ」という名前は、出エジプトの物語で天から降ってくるマナに由来しています。「マンナビスケット」という商品があることを知り、一般受けするかなと思って付けました。
現状を2024年度のデータを元に説明しますと、来場してくださる方は大人と子どもを合わせて平均16人(最低5、最高23)、スタッフは15人程です。子ども100円、大人300円としており、その収入と食材費だけで見ればほぼプラスマイナス0です。ただ、活動にあたって保険料やおもちゃ、備品の購入などがあるため教会会計からも実質5万円ほど支出しています。
そもそも、尼崎教会で子ども食堂の取り組みが始まったのは、コロナ流行前までしばらく行っていた「高齢者にお弁当を届ける活動」という背景がありました。このおかげで厨房設備は整っており、加えて以前なされていた教会学校での料理活動という地盤がある中で、「何か新しい活動を」との声で、子ども食堂が始まりました。それまであった教会の活動が形を変えた、のです。当初より教会関係施設の保育園の在園生や卒園生を中心に、子ども食堂を利用いただいていましたが、3年間続けるうちに地域の方々にも知っていただいたようで、「子ども」に限らずいろいろな方が訪れてくださるようになりました。また、子ども食堂の運営スタッフで地域のイベントへの出店などもすることができました。
先に示した来場者数に現れていますが、日によって人数の変動が大きく準備数の予想が付きにくいということが課題としてあります。いわゆる「国民の休日」や学校の行事など、様々な影響を受けます。多く用意しても全然人が来ないこともしばしばです。
出エジプトの途上、飢えに直面した人々に神さまは「マナ」を与えたと聖書は伝えます。マナを見て人々は「これは一体何だろう」と驚きますが、この言葉はエジプトでの肉や野菜を食べる生活と比較した時、甘いだけのマナに対する「驚きと失望と不満を象徴する(池田裕『旧約聖書の世界』2001年、岩波書店、109頁)」とも解釈できます。少ない来場者を見て、コロナ禍を経て教会の経済的なことをはじめとする様々な困難を見て、無縁社会と言われるこの世の中を見て、「一体何だろう」とため息をつくときもしばしばです。しかし、この現状を神の糧と信じ祈ることの大切さを「マンナ」を通して感じています。
(桝田翔希報/尼崎教会牧師)
子どもが安らげる場所を願って
子どもの居場所「Yu-Ya」 《大阪府》
学校に行けない、行かないこと(「不登校」という表現は避けています)を決めた子どもたちの居場所「子どもの居場所Yu-Ya(以下、Yu-Ya)」は、2018年、地域に住む小学生の保護者お二人が教会を訪ねてくださり始まりました。子どもたちは、理由こそ様々ですが、後ろめたさから外出を恐れ、生活が不規則になりがちです。そこでお二人は、平日の日中に子どもが安心して通える場所を求め、教会を思い出してくださったのです。従ってYu-Yaはまず「自宅から教会まで出かけられること」を第一の目標に掲げています。
名前の由来は、映画『千と千尋の神隠し』の「湯屋」にあります。子どもたちで話しあって決めたこの名には、登場人物が銭湯でリラックスするように、ここが安らげる場であってほしいという願いが込められています。また湯屋は、名前を奪われた主人公が周囲の助けを得て困難に立ち向かい、成長していく場でもあります。ここが、一人ひとりが名前を持った尊い存在として大切にされ、自分の持つ力に気づける場所であることを私たちは願っています。
現在の活動は週2日(月・木)の午前10時から午後4時までで、特に「お昼ごはんを一緒に食べること」を大切にしています。教会での活動ということもあり、保護者のリクエストで、食事の際は牧師が食前の祈りをしています。当初、子どもたちは戸惑いもありましたが、あるスタッフの葬儀を経験し、その姿勢に変化が生まれました。ある時にはお祈りに対して「昨日は〇〇ちゃんの誕生日だったのに忘れているから、やり直して」と声が上がることもありました。日々の交わりの中で、子どもたちが宗教教育を受ける権利の重みを痛感させられます。
食事の時間は、子どもたちが学校に行かない理由をそれとなく語り始める場でもあります。話したい子は話し、聞きたい子は耳を傾けます。こうした時間が子ども同士のケアとなり、新しく加わる子にとっても受け入れの入口となっています。このように、子どもたちが主体となってつくり続けるYu-Yaの活動を、皆さまのお祈りに加えていただければ幸いです。
(老田 信報/運営スタッフ・大阪聖和教会牧師)
静まって神を知る
静まれ、私こそが神であると知れ。国々に崇められ、全地において崇められる。
詩編 46編11節
(聖書協会共同訳)
聖学院大学教授・チャプレン
柳田 洋夫
「静まる」ということ
与えられている御言葉において、聖書協会共同訳で「静まれ」とされているヘブライ語「ラファー」は、新共同訳では「力を捨てよ」と訳されています。そのことが示すように、この言葉には、単なる「口にチャック」とか「慌てない」以上の意味が込められています。それは、おのれのはからいを放棄し、自らを全面的に神に委ねることを私たちに促すものです。そうするとき、神ご自身が私たちの中で語り、働かれていることに気づかされます。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい」(出エジプト14・14)という、イスラエルの民が「静か」どころではいられないはずの状況に対して発せられた言葉も思い起こされます。
逆に言えば、まず私たちが沈黙し、静寂において自らを神に委ね、明け渡すことをしない限り、神について知る「インフォメーション」のいくばくかを仕入れることができたとしても、神を知ることにおいて自らが変えられていく「トランスフォーメーション」については、その糸口すらつかめないということになるでしょう。
静まることの難しさ
それにしても、静まるというのはたいへん難しいことです。それどころか、現代社会は「静まったら負け」という雰囲気に支配されているようにも見受けられます。いっそう厳しさを増す現在の日本において、多くの人々が、「負け組」にならないために、または、ともかくも生きていくために、いつも何かに駆り立てられているような不安と焦燥の日々の中を過ごしています。
SNSがそこに拍車をかけます。それは私たちを瞬時に、容赦なく格付けして、「今のままではだめだ、もっとがんばれ」と、けしかけてきます。たとえ、「そのままのあなたでいいんだよ」「休んでもいいんだよ」などと言われたところで、それも結局のところ「生産性」や「効率」に絡めとられてしまう気休めでしかないことに私たちはうすうす感づいています。
これはまた、「デジタルデトックス」(ネット断ち)などで解決できる問題でもありません。脳科学が示すところによれば、私たちの脳は、何もしていないときにも休むことなく働いています。それは「デフォルト・モード・ネットワーク」(DMN)と呼ばれるもので、そもそもは危険や不測の事態に備えるための働きです。しかし、それが過剰になると、絶えざる未来への不安や過去についての後悔というネガティブ思考の原因となります。心理学的に言うならば、本来は心が危険に直面したときにのみ作動するはずのさまざまな防衛機制がいつの間にか恒常化して、打ち続く不安や「心ここにあらず」という状態を招くことになります。現代は特に、処理しきれない情報が積み重なって、いっそう事態を悪化させます。
そのようにして、私たちの脳内ではいつも大騒ぎが繰り広げられています。そして、そうである限り、神に出会うことは決してできません。なぜなら、神は他ならぬ「静寂」と「今」におられるのに、私たちはそこにいないからです。「お留守」にしているのはいつでも、神ではなく私たちのほうなのです。
「静まって神を知る」ために
それでは、「静まる」ということは、結局のところ無理な相談なのでしょうか。
そんなことはありません。キリスト教には、古代よりの「観想の祈り」の伝統があります。それは、宗教改革が無下に切り捨ててしまった深く豊かな経験と知恵に裏打ちされたものです。「観想」とは、沈黙/静寂(si-lence)において、今を生き、神に近づくための実践のことを言います。その中で、「イエスへの祈り」(Jesus Prayer)が広く伝えられてきました。「主イエス・キリスト、神の子よ、罪人の私を憐れんでください」という祈りです。この祈りをいつでもどこでも繰り返すのです。これは、「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5・17)という勧めにかなうものであり、祈りを「くどくどと述べる」(マタイ6・7)こととは全く異なります。
この祈りは、絶えず動いてやまない思考や感情をそこに集中させます。それは、「あらゆる思惑をとりこにしてキリストに服従」させる(Ⅱコリント10・5)ことでもあります。
その祈りの言葉は次第に沈黙に向かいます。沈黙は言葉の断絶ではなく源泉であり、神はまず私たちをそこに招いておられるからです。
祈りの言葉はイエス・キリストを通して神に受け入れられます。そして、そのようにして、「静まれ、私こそが神であると知れ」という神の言葉が私たちの中で少しずつ育ち、実現していきます。そのことはまた、祈りが礼拝に臨むこころを深め、礼拝が祈りを深めていく相乗効果をもたらします。
「祈る人」となる
それは、フランスの観想者ギュイヨン夫人の言葉を借りるならば、「過去は忘却に、未来は摂理にまかせ、現在は神にゆだね、神の永遠なる秩序を私たちにもたらしてくれる今このときに満足する」ようになることでもあります。
そこにおいて私たちはまた、「祈る人」(homo orans)へと変えられていきます。祈る人にならない限り、私たちは神と隣人から疎外され、いつまでも目先の困難に翻弄され、悩み苦しみと自らとを同一視してしまう者でしかありません。私たちは罪ゆえに、そのことに慣れっこになっていますが、それは人間の本来的あり方とはかけ離れています。そうではなく、静まって神を知り、神を神として崇める(または神が「高められる」)ことによって、私たちもまた本当の「私」へと日々新たにされていくのです。
以上述べたことの詳細については、拙訳で恐縮ですが、カリストス・ウェア『イエスへの祈り』(新教出版社)ならびに、マーティン・レアード『静寂の地へ』(教文館)をぜひご参照いただきたいと思います。「静まって神を知る」ための、古くて新しい道についての、深い、そして実践的な知恵を得ることができるはずです。
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