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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4659号】講壇を祈る群れ

2008年9月27日

毎年八月の講壇は他の教師を招いて礼拝をささげている。牧師の休養のためでもある。隠退教師や教務教師は招きやすいが、現職の教師はなかなか困難である。出身牧師を招きたいと、これまでも幾度か交渉したが実現できなかった。ところが、今年はようやく招くことができた。本人が仕える教会では、当日の講壇を他の教師に依頼することになるが、その場合、招いた教師への謝礼は、牧師が他の教会で受けた謝礼を差し上げてもらいたいとの事なのである。

今年、その出身牧師を招くことができたのは、今年度になって当教会に神学生が生まれたからである。神学生の奉仕として、その教会に派遣したのである。

教会は牧師の生活を支える予算で精一杯であり、それ以上の予算が組めない場合が多い。例えば、牧師が病気やその他で講壇に立てなくなっても、牧師の謝儀は差し上げなければならない。他の教師を招くとき、予算上苦しくなる。

そのような問題が有るので、地区協力伝道資金を立ち上げた。地区における新年合同礼拝の席上献金を協力伝道資金にしたのである。牧師が病気等で講壇に立てなくなったとき、他の教師を招く費用として用いることが目的である。しかし、発足して十八年も経つのに利用した教会はない。対象となる教会がいくつかあったのだが。

示されたことは、教会の祈りである。牧師の回復を祈りつつ、毎週の講壇を祈っているのである。

(教団総会書記 鈴木伸治)

受くる幸い、伝える幸い

岡山から瀬戸大橋を渡り、四国、坂出に着く。坂出から瀬戸内海に沿って東に行くと高松、徳島へと至る。また西に行くと丸亀、多度津、その先は愛媛、松山である。坂出、丸亀、多度津はそれぞれに海を望む讃岐平野にあり、一つの文化圏と言ってよいだろう。

合田さんは、この文化圏に生れ育ち、これまでの人生で、多くのときをここで生活してきた。この土地を長く離れたのは、大学で学ぶために広島へ行ったときと、その後、広島・因島の高校で英語教師として働きはじめたときだけである。

広島での四年ほどの働きの後、丸亀出身の妻と結婚したことをきっかけに、故郷、香川での教員採用となった。その後、一貫して香川の学校教師として勤め上げた。

多度津、丸亀の近くには善通寺がある。弘法大師の生誕地、真言宗の強い土地柄である。また、結婚した妻の実家は浄土真宗のお寺だった。その中で、合田さんが教会に導かれ洗礼に至ったのは、幾人かのキリスト者との出会いがあったからだ。

小学校三年生のとき父が亡くなった。母と祖父母が商売を営みながら育ててくれた。家に同居していた柳井永真太さんは、多度津教会員だった。日々の生活の交わりの中で大きな影響を受けた。広島では大学に数人のキリスト者の友人がいた。彼らからも良い感化を受けた。

結婚して香川に帰り、柳井さんの勧めもあって多度津教会に通うようになった。一九五八年春のこと。翌年、受洗した。

教会に行くようになって、教会員の野田恒子さんから良い導きを受けた。合田さんにとって「柳井さんが信仰の父であり、野田さんが信仰の母だ。」

丸亀高校への転勤に伴い、丸亀教会に転会。多度津でも、丸亀でも教会学校の奉仕に力を注いできた。教会学校校長は退いたが、今も一教師として奉仕する。それは、受けたことを、次の人たちに伝えるためである。

部落解放のための祈りの日

部落差別を無くすため、「部落解放祈りの日」礼拝が七月第二主日に各地で行われました。

部落解放センターは、「部落解放祈りの日」礼拝の実施を七月十三日に教会・伝道所へご依頼しました。これは、七月の第二主日に教会・伝道所で部落解放のために祈っていただくことをお願いしたものでした。その趣旨は二点あります。①部落解放センターは、二〇〇〇年七月十二日、常議員会で可決された『教団部落解放方針』の具体化として「部落解放祈りの日」運動を開始した。それにあたり、まず有志教会に実施を依頼し、それをもとにして「部落解放祈りの日」運動をどのように進めるのかを明らかにした。②「部落解放祈りの日」の日程については、部落差別問題について教団として組織的な取り組みの開始が定められたのが一九七五年七月十四~十五日開催の常議員会であったことを覚え、七月の第二主日とすることになりました。

二〇〇八年度の「『祈りの日礼拝』運動」パンフレットは、大阪教区部落解放委員会(樋口洋一委員長)が、昨年度何度も会議を重ね作成してくださいました。この新「『祈りの日礼拝』運動」パンフレットを約三五〇〇部印刷し各教会・伝道所、有志へ送りました。このパンフレットが用いられ、全国各地で実施された報告書がセンターに届いています。

部落解放センターは、「教団部落解放方針」に基づいて「部落差別に対する教会の取り組みの推進」をより活発に行い、各地の教会・伝道所と連帯して今後も部落完全解放を目指して取り組んでいきます。

また、部落解放センターは、今年も独自の「部落解放祈りの日」礼拝を七月六日いずみ教会で行いました。(共催:いずみ教会、大阪教区部落解放委員会)新「『部落解放祈りの日』運動パンフレット」を用い樋口洋一教師が司会を、小林明教師が説教を行いました。参加者二一名で席上献金一三、六二三円を部落解放センターへ捧げられました。

(小林明報)

宣教師からの声

乳と蜜の流れる豊かな地

ウィットマー・ロバート

ウィットマー・圭子

(カナダ合同教会からの派遣宣教師)

 

一九六九年九月にカナダ合同教会派遣宣教師として羽田空港に到着した時、二一歳になったばかりの青年でした。東京で日本語を学んだ後、教育宣教師として札幌の北星学園大学に赴任しました。札幌で、浦河出身の木戸圭子と出会い、一九七三年に結婚し、圭子もカナダ合同教会の派遣宣教師となりました。

一九七五年に今働いている名寄と道北センターに二人で向かいました。その後、カナダの神学校で学ぶことがあり、また数回の本国活動がありましたが、この三三年間「道北」そして道北センターが私たちの心の故郷であり、働き場であります。同じ所に三三年もいると、もう動いた方がいいと度々思いますが、しかしここで自分の可能性が生かされていると思う時ペトロのように「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」という気持ちになります。ゆるされることならもう少し道北で働きたいと思います。

道北センターが大好きです。教会のセンターは足一本を教会におき、もう一本を地域社会におきながらその両方で働いている神によって生かされています。教会が預かる福音を地域の人々と分かち合い、また地域社会の課題を教会に伝えることが出来ます。私たちの信仰、また宣教理解はセンターがもたらしてくれた多くの出会いと経験によって育てられました。道北センターの働きは幅広いですが、その中心となっているものは農村センターとしての使命と小規模教会との宣教協力です。

農村センターとして三愛塾運動(神を愛し、人を愛し、土を愛する)を通して道内また道外の多くの農民とつながりを持っています。年に二回の三愛塾を開く他に、全道の農場を訪問(年に四十件ほど)し、農村レシピの本作りなどに協力しています。教会において世界、また日本の農村および食糧事情を学ぶプログラムを企画し、また年に一回「聖書と農業」をテーマに講演会を開いています。

道北地区は広く、小さい教会が多いので宣教協力が必要です。キリストにあって一つである教会として歩んでいます。考えてみれば、道北センター館長でありながら常に教会の働きと関わりをもち、二十年以上道北地区の何処かの教会の代務牧師として働いています。圭子も多くの教会に関わってきました。このような協力によって専任の牧師がいない時も各教会の礼拝は休まずに行われ、小さい教会がとても元気でいきいきしています。その小さな教会にいつも励まされています。

北星学園大学にいる時、一緒に翻訳作業をした友だちを通して言葉の面白さ、大切さ、またその力を知ることができました。名寄にいて、日本とカナダのキリスト教関係書物の英訳・和訳に関わる事ができ、また多くの国の人々の通訳をする機会が与えられている事は大きな喜びです。人々がつながるために、平和を作り出すために、また神の愛を伝えるために自分の手と口が少しでも用いられていることを願うだけです。最近、私の日本語が北京語に、また韓国語に通訳される不思議な経験をしました。その時、すべての隔てを壊す神のまことの「言」の力を思わされました。

つらい事もあり、やめたいと思う時もありますが、「道北」は私たちにとって「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに」(ルカ638節)恵みが与えられる地です。

齊藤康彦氏(本庄旭教会牧師)
7月30日、逝去。64歳。山形県に生まれる。1971年東京神学大学大学院修了後、小高教会、東新潟教会牧師として務め、新津教会を兼牧し、山形学院高校教務教師として奉職した。77年から花輪教会を牧会し、82年から本庄旭教会牧師を務めた。遺族は妻の繁子さん。

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