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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4660号】再建進む被災地再度問安 募金も更に推進

2008年10月11日

 

「能登半島地震」被災教会会堂等再建支援委員会

第六回「能登半島地震」被災教会会堂等再建支援委員会(以下、委員会)が、九月八日~九日に、被災教区・中部教区石川地区恵泉教会で開催された。

今回の委員会は、被災教区の中部教区能登半島地震被災教会再建委員会に陪席させていただくとともに、再建途上にある教会、伝道所の現地を問安し、その状況を見せて貰った。

陪席した中部教区の再建委員会では、それぞれの被災教会・伝道所の会堂等の再建について、改築、補修計画の進捗状況及び予算・資金、経費の状況について、それぞれの教会から報告された。それを受けて相互に情報交換、意見交換、協議がなされていて、再建への意欲を強く感じさせられた。

委員会は、前回(第五回)委員会記録及び教団総会に提出する委員会報告を確認後、事務局から、まず募金の状況及び会計の報告を受けた。

募金の状況は、九月二日現在で91,747,907円であり、中部教区からの教区総会決議に基づく大口の献金もあり、かなり推進されている。

一方、再建支援金は3,000万円強支出され、今回の委員会で承認した、3,100万円強を加えれば、再建への動きが会計的にも推進されている。

続いて委員会に陪席された、高橋潤中部教区議長及び小宮山剛中部教区能登半島地震被災教会再建委員長と共に中部教区の再建委員会を陪席した中で受けた感想、問題点等について話し合った。また、新たに会堂等の改築、補修等に伴う支援金の申請について、委員会はこれを承認した。

以後、協議に入り、今回が今総会期最後の委員会となるので教団総会に向けて当委員会の継続を申しいれるとともに、支援ニュースを発行することとし、その内容について協議決定した。

翌九日は、現地問安として羽咋教会・富来伝道所の改築現場、及び、輪島教会会堂補修と牧師館改築の現場を訪れた。

輪島教会では教会員の方と親しく懇談の時を持ち、再建の困難さとともに、これからの希望について話し合った。

(津村正敏報)

 

 

九月四日~五日に第35総会期第七回宣教研究所委員会が開催された。

事務局より「日本基督教団史資料集」全五巻について報告がなされた。

在庫については第一巻以下それぞれ26冊、98冊、199冊、212冊、111冊となっており、現在七百万円近い会計残が出ている。

この会計残の扱いについて協議した結果、収入の中に宣教研究第一資金から八百万円の繰り入れがあったため、二〇〇八年度末の時点における会計残を宣教研究第一資金に入れることを承認した。

その時点でこの資料集の会計を閉じ、在庫は教団出版局に移譲する。

今期委員会は「宣教基礎理論」の策定に向けて歩み出したが、新たな宣教基礎理論を作成するために、現行の「宣教基本方策」(一九六一年)と「宣教基礎理論」(一九六三年)の問題点の確認を行った。

その全文は十二月発行予定の「宣研だより」に譲るので是非一読願うとして、要点は以下のようである。 現行の「宣教基本方策」と「宣教基礎理論」の問題点は「教会の体質改善」を目指したが、その際教会がそもそも主イエス・キリストの体であるとの聖書理解が十分に踏まえられていなかった。

さらには「和解」の理解も、聖書が伝える神と人との和解を充分踏まえることなく、ただちに人や社会に向かっての和解の姿勢のみが打ち出されている点も問題として指摘された。

これらの問題点を「『宣教基本方策』『宣教基礎理論』に関する問題提起」としてまとめると共に、今期委員会が目指した新たな宣教基礎理論の考え方を「宣教基礎理論作成のための共通理解」としてまとめたので、次期委員会も『宣教基礎理論』作成に向けて歩みを継続してもらいたいと願っている。

次期委員会へのその他の引き継ぎ事項としては、「万博・東神大・教師検定問題年表」改訂のためのプロジェクトの継続も挙げられた。

(長谷川洋介報)

 

35総会期第七回教育委員会が九月二日(火)~三日(水)の両日、教団四階会議室にて委員全員の出席をもって開催された。

主な報告事項としては先ず、七月三一日~八月八日まで開催された「ユースミッション2008」の報告が行われた。

台湾長老教会から七名の青年の参加があったが、日本側は五名であった。今後の日本側の主催の形態と青年の招集に課題が残る。

次に、プログラム小委員会からは八月十八日~十九日に静岡一番町教会で行われた、二〇〇九年度の教会学校プログラム作成の報告を受けた。

「教師の友」の主題と聖書箇所の選定は教育委員会が責任を負う。その責任の重さを痛感しつつ、執筆者は「教師の友」編集委員会が選考するので、教育委員会側の意図を正確に伝える事の重要さを確認した。

協議事項としては第一に二〇〇八年度のクリスマス献金の送金先を決定した。海外は「アジアキリスト教教育基金(ACEF)」(バングラデシュに寺子屋を贈る運動)、「四川大地震被災地の子どもたちへ」、国内は「若草園」(養護施設)と「ひかりの家学園」(幼児発達支援施設)の二施設である。

アイヌ奨学金は二〇〇七年度をもって終了を確認した。特定の施設に長期間献金することは、教育委員会の方針にそぐわないと判断したためである。

昨年度から開始した、教会学校応援セットを更に充実したく願っている。

キリスト教教育主事関連では、教団新報に掲載予定の認定試験の公告内容を検討、決定した。聖和大学と関西学院大学の合併を背景として、聖和大学から教育委員会へ要望が出されている件についても話し合われたが、キリスト教教育主事の会からは要望や質問のないことや、現行規則で対応できる事を併せて考慮すると、学校内部の問題と判断せざるを得ないとの結論に達した。

なお、総幹事の下に、「キリスト教教育主事に関わる検討会」が設置され、現教育委員の岸憲秀、加藤誠の両名がメンバーに入ることが承認された。

(加藤誠報)

 

 

▼中島敦の「名人伝」、掌編の終わりの方を、少しだけ引用する。「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」。▼機織(はたおり)台に潜り、眼の前を往来する機躡(まねき)を決して瞬かずに見詰め、また軒に吊した虱を飽かず見詰めるというような修行を経て、名人の域に達した主人公紀昌は、単なる道具に過ぎない弓矢を最早必要とはしなくなる。彼は眼力だけで飛ぶ鳥を落とすことが出来る。「賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった」。▼遂には、「ある日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行ったところ、その家で一つの器具を見た。確かに見憶えのある道具だが、どうしてもその名前が思出せぬし、その用途も思い当らない。老人はその家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、また何に用いるのかと」。▼そして、末尾の部分、「その後当分の間、邯鄲(かんたん)の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟(しつ)の絃を断ち、工匠は規矩(きく)を手にするのを恥じたということである」。▼現代の教会は、紀昌のような名人で溢れているのだろうか。教会を会場にし様々な社会活動や文化活動が行われ、政治的な集会さえ持たれる。それは良いとしても、聖書を開かない集会が増え、聖書を手にしないで説教する説教名人が現れているのではないか。

 

励ましの言葉

コリント伝道で失意の中にいたパウロは、主からの御言葉によって勇気づけられました。

「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ』。」(使徒言行録18911

「この町にはわたしの民が大勢いる」。この言葉は、あらゆる説教者の書斎の壁に大きく記されるべきだ、とある人が言っています。なぜなら、この励ましの御言葉がなかったなら、コリント教会は生まれなかったに違いないからです。この御言葉は、今日の私どもにも非常に多くのことを語りかけています。

コリントの教会は、原始教会の中でも最も規模の大きい、そして、最も活発な教会となりました。私どもはパウロが書いたコリントの信徒への二つの手紙から、この教会の内部にも様々な問題があった、ということばかり語りたがります。しかし、むしろ、この教会の存在の意義や周囲に与えた影響の大きさをよく考えなければ、見方が偏ります。パウロはこの教会を愛し、この教会に宛てて、実に四通もの手紙を書いているのです。

コリントの町は、アテネとは比べものにもならないほどのマンモス都市でした。「ギリシャの星」と呼ばれ、繁栄を極めていました。しかし、この町は同時に、様々な悪徳と虚栄の町としても、悪名が高かったのです。

パウロがこの町に伝道に来たのは、アテネ伝道が失敗したからのようです。そこでパウロ自身が受けたダメージも、決して小さくはなかったようです。あの気の強いパウロが、「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」(一コリント23)と言っているのです。そういうパウロの心細い限りの精神状態に対して、他方、コリントの町は、「神など要らない」という世俗的精神に漲り溢れていました。それは、今日の私どもの周囲にも満ちているものです。神がいてもいなくても、時間は同じように過ぎて行き、社会では同じように善いことも悪いことも起こり、人間は同じように年を取って死ぬ。神を慕い求める人は一人もいない。お前さんがどんなに神の言葉を語っても、この町では虚しいだろう。きっとお前さんはそのことを知るようになる。

このような世俗的精神は、どうかすると私どもキリスト者の心の中にも忍び込み、私どもを無力感や絶望感に陥れます。この時も、それはまるで高くそそり立つ断崖絶壁のようにパウロの前に立ちはだかっていたのです。

パウロの覚悟

パウロは余程の覚悟を決めたに違いありません。その決意の程を述べた言葉が、次の有名な聖句です。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(一コリント118

彼はこの時、もしコリント伝道に失敗したら、ヨーロッパ伝道全体が失敗したことになる、とさえ思っていたに違いありません。

果たして、パウロはこの町でも、ユダヤ人たちの反対を受け、会堂から追い出されました。幸いにも、ティティオ・ユストという人が自分の家を開放してくれることになりました。

ところが、ユストの家は、こともあろうに、ユダヤ人会堂のすぐ隣にあったのです。これこそ神のご計画とも言えますが、同時に、パウロたちは非常に厳しい戦いのるつぼの中に投げ込まれたことになります。パウロはまさに背水の陣を敷き、連日のように祈り、御言葉に専心し、日曜日には切々と、訴えるような気持ちで御言葉を語り続けました。

この世俗的な町コリントの人々に、福音をそのままぶつけるという果敢な戦いが続きました。

見えない神の民

そんなある夜のことでした。主は幻の中でパウロに、冒頭の御言葉をお語りになったのです。

「この町には、わたしの民が大勢いる」

パウロはこの御言葉を、調子のよい、伝道の上向きの時に、聴いたのでしょうか。どうも、そのようには思えません。むしろ、パウロの気持ちからすれば、全く正反対だったのではないでしょうか。「恐れるな」ということは、パウロが依然として恐れに満ち、いつ何時ユダヤ人が彼を襲って来るかも知れない、という戦々恐々の日々を過ごしていたからです。「語り続けよ」というのも、彼の腰は必ずしも据わっていなかったからでありましょう。語っても語っても無駄であるように思われるとき、私どもは御言葉そのものに対して、しばしば虚しさや絶望感を抱きそうになります。しかし主は、「この町にはわたしの民が大勢いる。だから、語り続けよ」とおっしゃるのです。なぜ大勢いると言えるのか。理由は分かりません。ただ「大勢いる」、と言われるから、信ずるより他にありません。主が預言者エリヤに「わたしはイスラエルに七千人を残す。」(列王上1918)と言われたときにも、エリヤの目にはこの七千人の信仰者は、全く見えません。パウロの場合、教会に来ている人々は、恐らくこの私どもの礼拝の半分にも満たなかったのでありましょう。しかし、この目に見えないコリントの人々のことを、主は、「わたしの民」と呼ばれます。そして、「わたしの民は大勢いる」とおっしゃるのです。

この時、パウロは気が付いたのです。伝道をしているのは、この自分ではなくて、神である、と。神が自分の中で共におられて、御自分の民を捜しておられるのだ、と。従って、伝道者の仕事は、ただこの大勢いるはずの神の民を掘り起こし、しっかりした信仰を持って貰うよう、ひたすら福音を語ることしかない、と。

テルトゥリアーヌスという教会教父は、「人の魂は生まれつきキリスト教的である」と言っています。どんな人でも、やはり死ぬ時にはキリスト教の信仰を持って死にたいのです。私どもは、そう確信して差し支えありません。その人々に福音を宣べ伝えることが、私どもの光栄ある務めです。

それ以来、パウロは「一年六ヶ月の間ここに留まって、人々に神の言葉を教えた」、とあります。「留まって」とは、「腰を据えて」、という意味です。そして、実に一年半という長い期間をここで伝道することになったのです。このようにして、コリントの教会が建てられたのでした。

(美竹教会牧師)

 

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