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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4667号】荒野の声

2009年1月31日

▼CSの一場面。おふざけが過ぎる生徒に「こらーっ、○○、聞いているふりくらいはしろ、礼儀というものがあるだろう」「聞こえているよ」。「聞く気はないが聞こえているよ」の意味。「じゃあ、今の説教を話してみろ」。○○は、十分の説教をほぼ完全に復唱した。▼やはりCS礼拝。未だ三歳の男の子が、説教の直後、こ こに記したら三行にもなる長セリフを言い、「…って、どういうこと?」。全く意味が分からない言葉を三行分も暗記出来る。▼子どもの記憶力は素晴らしいという話ではない。聞いていないようでも、聞こえている。そして、効いていないようでも、効いている。これは決して駄洒落ではない。▼贅沢な鍋を食べて、「これは凄い 塩だ。何々産に違いない」と言う人は、多分、料理漫画の登場人物だけだ。誰も一顧だにしないが、塩味は効いている。決定的に、ものを言う。▼昔、コンビニもなかった時代の大晦日、教会員からいただいた豪勢な寿司桶を囲んで、往生したことがある。煮炊きが禁じられている寮のこと、誰も醤油を持っていなかった。ケチャッ プ、マヨネーズ、あるもの全て試したが、どうにもならない。▼塩の目方が材料全体の1%を超える料理は、滅多にないだろう。1%未満でも、果たすべき塩の役割がある。きいていないようだが、確実にきいている。

マルコによる福音書10章17~31節  小林   眞
不安を見抜く中で
今の時代、間違いなく誰もが平安を願っている。ただ平安と言っても、その内容は、その人の生活の場の状況によっては多様だと思われる。
例えば、自分の個人的な魂の平安であったり、社会的な差別から解かれる正義であったり、具体的な戦争がなくなる平和などを願うのである。
従って、その内容に沿って自分なりの求め方をするのであるが、多様な平安とは別々のことだろうか。
主イエスのもとに一人の人がやって来て「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか(17節)」と尋ねた。
この「何をすれば」の中には「永遠の命は、自分の力や行いで受け得るもの」と考えていることが明確に出ていると言ってよい。
主イエスも、それを分かってであろうが「十戒」を示されると「そんなことはみな守っています」と自信を持って答えた。
ということは、彼は自分で永遠の命を受ける道を知り、自信もあるが、主イエスに尋ねたとは、なお不安があることを自ら暴露しているのである。
主イエスは、この人の不安を見抜く中で、いつくしんで「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる(21節)」とおっしゃった。けれども彼は、その求めに対して財産を捨てることができなかった。
財産を捨てることは
なぜできなかったのか? 多少は、惜しいという気持ちがあったかもしれない。
しかし、彼は死後の世界に財産を持って行くことができないことくらいは分かっているはず。
ましてこの人は、永遠の命を求めている故に、地上にだけ通用する財産は捨ててもよかったのではないか。
またこの箇所を読んだ方が「財産を捨てないと永遠の命に与ることはできない」と理解し「マザー・テレサはできたかもしれないが、凡人の私には無理だ」と言うことも多い。
しかしそうではない。逆にそうだとすると、地上で恵まれた人、所謂お金持ちは救われなくなる。
ここで彼が財産を捨てきれなかったのは、地上の財産に固執したからではなく、旧約聖書の時代から「財産は神の祝福の印」という考え方があったからである。
つまり、彼にとって財産を捨てることは神の祝福の印・保証を手放すことにほかならず、それらを手放すことによって、永遠の命・祝福が与えられるとは到底考えられなかったからである。
その意味で、主イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか(23節)」とおっしゃったのであるが、弟子たちには真意が分からず「それでは、だれが救われるのだろうか(26節)」と考え込むしかなかったのである。
地と天との尺度の違い
この箇所で主イエスが一番語りたかったことは「地上の財産や確かさの中に、天の印を見いだす空しさ」であり、言い換えれば、地上と天における尺度の違いである。
その違いの理解が浅かった弟子たちが「ではだれが…」と問うたことはやむを得ないことかもしれない。 それを受けて、主イエスは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ(27節)」と、人間の行いの不確かと、神の業の確かさを明確にされた。
わたしたちは、時には考える。これだけ信仰生活…礼拝・奉仕・献金ほか…を続けたから天の命を受け継ぐことができるだろうと。 とんでもないことである。
わたしたちの信仰生活の行いは尊く大切なことであり、神さまも喜んで下さっているに違いない。しかし、それを以て「命の担保」とすることはできない。
「永遠の命」は、人間的・地上的保証のないところで、神ご自身が保証して下さるのである。
人間的保証のないところとは、人間の確かさがなく「罪のあるところ(告白)」と言ってよく、そこにこそ、神ご自身の確かさと業が明らかになる。
私に従いなさい
改めて見ると、主イエスは「わたしに従いなさい(21節)」とおっしゃったが、これは何を指すのか。
翻って、この男との問答は、主イエスが旅に出る時であると17節に記されているが、この旅とはエルサレムに向かう旅であることは間違いない(32節)。
つまり「わたしに従いなさい」とは、「エルサレムまで従って来なさい」ということであり、「エルサレムに来ればわたしの本当のことが分かる」とのことにほかならない。
二千年前、主イエスに従って行ってエルサレムで見えたこと、それは「赦しと贖いの十字架と、ご復活の命」の福音そのもの…。
この福音に与ることこそ信仰そのものであり、地上のどんな力で以ても切ることのできない神さまとの永遠の関係に入ること。
この福音の「命」なくしての平安…心や魂の平安、正義や、平和など…は果たして本物なのであろうか。
今一度、自分の求めている平安の内容を問い、より正しく「命」に与りつつ、福音に応える歩みを続けたい。
(遠州教会牧師)

2009年1月17日

十一月二四日、長崎Nスタジアムで三万人が集い、日本初の列福式が執り行われた。私は日本宗教連盟、日本キリスト教連合会を代表しての参加であった。
「ペトロ岐部と一八七人の殉教者」は山形の米沢から九州まで九つの地域で殉教したが、四人だけが司祭、あとは殆ど名もない信徒であった。
婦人が六二名、子どもが三一名といわれるから、両者でほぼ半数になる。
彼らは死よりも強い愛の絆、いのちより尊いものがあることを知り、従容として殉教していった。だから英雄的に殉教者を崇めるのではなく、キリストへの愛を貫いて日常的信仰を生き抜いた。その信仰を今に返して、何とか継承したいという思いが満ちていた。
時折降り注ぐ冷たい雨の中、身じろぎもせず三時間余のミサに列していた熱き信仰が印象的であった。四〇〇人の子どもたちの手によって運び込まれたご聖体を、全世界から集うた幾多の司祭の手により拝受する姿に、四〇〇年に亘る信仰の継承がなされている重さ深さを垣間見る思いであった。
改めて確認したのは、殉教者は孤独の中に死んでいったのではなかったということ。コンフラリアという主にある共同体の絆が、しっかりと彼らの生と死を支え切ったということであった。
式の最後で、アウグスチヌスの言葉が引用された。「迫害や拷問が殉教者を生み出すのではない。キリストへの愛の証しが生むのだ」
(教団総会議長 山北宣久)

十二月十日(火)、常議員会の議事終了後、教団予算決算委員会によって制作された「全教区版 教団50年データーグラフで見る日本基督教団」が上映された。
内容は「財務状況」「現陪会員」「教区民力」「教師謝儀」「年齢構成」「受洗数」「教会学校」「カトリック」「別帳会員」「提言」の十項目から構成されている。
各教区の状況が詳細に分析され、グラフで見ることができ、わかりやすい資料となっている。例えば、教会の経常収入を教区ごとにまとめたグラフでは「二〇〇〇年度と二〇〇七年度を比較した場合、教会経常収入が増えている教区はどこか」「一番減っている教区はどこか」などを一目で把握することができる。
現住陪餐会員数の変動についても著しく減少している教区がある一方、教勢をのばしている教区があることも把握できる。
興味を引かれるのは、各教区内の民力水準が分析され、その中で教会の現状と社会の現状は決して連動していないことが明らかにされていることだ。
また、カトリックや他教派の教勢の推移も参考にすることができる。
これらのグラフを通して、自分が今いる教会の現状が、どういう性質から起きるのか、全教団的な問題か否か、教会の現在位置はどのあたりに位置するのかなどを把握することもできる。
一方で、数字に踊らされる可能性がないわけではない。DVDの中でも、主の宣教命令に言及され、教会の周辺にいる人にも御言葉が届いていないことが示唆されている。
このDVDはプロテスタント伝道150年の中でも発表される予定である。
問い合わせ先 日本基督教団予算決算委員会 (辻順子報)

●新刊から
『グループスタディ12章 マルコによる福音書』 大澤秀夫=著・四六判・一〇五〇円 グループで聖書を読むための、やさしいシリーズ。マルコの読み方の学び通して、イエスからの招きの意味と、グループ「共に読む」ことの力を再認識。
『新約聖書の礼拝─シナゴーグから教会へ』 山田 耕太=著・四六判・二五二五〇円 礼拝の議論が盛んな今、福音書、パウロ書簡、使徒教父文書などの資料分析を第一に、新約聖書学の立場から最初期の礼拝のかたちと神学を洗い出す。
『ボンヘッファーとキング─抵抗に生きたキリスト者』J・ディオティス・ロバーツ=著 島田由紀=訳・A5判・四四一〇円 ナチズム、人種差別に抵抗し、ともに39歳の若さで斃れた二人。その共通点と相違点を本格的に比較・考察した唯一・最新の研究書。
『現代教会建築の息吹─児島昭雄写真集』児島 昭雄=写真・A4判・一八九〇〇円 礼拝改革と建築技術の進歩が生み出した、旧来の建築様式を打ち破る多様な会堂。現代教会建築を代表する日本の56会堂を収録。日本を代表する写真家が捉えた静謐な礼拝空間。
『「新しい教会暦」による説教への手引き』出版局聖書日課編集委員会=編・A5判・五四六〇円 救済史的構造を持つ四年サイクルの「教会暦」による黙想集。
『文学としての説教』加藤常昭・A5判・二九四〇円
バルト、植村正久、竹森満佐一らとの「対話」を通し新たな視点を投じる。
『日々の祈り』J・H・ジョエット・A6判・一五七五円〈愛蔵版〉二五二〇円

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