第36総会期第一回委員会を一月二七日に開催。委員は、今総会期第一回常議員会で常議員から選任された小橋孝一、長山信夫、石橋秀雄、佃真人、難波幸矢の五名である。
まず委員会組織を諮り、委員長に小橋孝一、書記に佃真人を選任した。
続いて野村和正担当幹事から前期委員会の経過と「申し送り事項」について報告を受け、当委員会の働きについて確認、協議した。特に在日大韓基督教会との関係については、一九八四年二月に締結した「日本基督教団と在日大韓基督教会総会との協約」の精神を受け継ぐ活動が当委員会に求められている。しかし他方で、日本基 督教団側から教団三役、宣教委員長、連帯特設委員会委員長、総幹事、担当幹事らが出席する在日大韓基督教会との宣教協力委員会があり、またその下に双方教団(教会)の総幹事による実務会も組織されており、当委員会との関係が明瞭でない。当委員会はこの宣教協力委員会を補完する働きを荷うのか等、委員会の位置づけや性 格について整理し、共通理解を持つ必要があるとの意見もあり、今後検討する事とした。
また前期委員会の申し送り事項である「当委員会が第34回総会で設置継続が認められなかった『在日韓国朝鮮人・日韓連帯特別委員会』の活動内容を受け継ぐものである」ことを確認しつつ、在日大韓基督教会との「宣教協力」についての学びを深め、同教会が取り組んでいる人権問題に学ぶ事、外登法問題と取り組む全国キリス ト教連絡協議会(外キ協)への参加・協力、キリスト教学校人権教育セミナー等関係するセミナー、集会への参加を委員で分担する事、等を確認した。
前期委員会では朴寿吉在日大韓基督教会総幹事を招いて両教団(教会)の宣教協力の展望について講演を伺っているが、今期メンバーが殆ど新しくなっているため、次回委員会に再度朴総幹事をお招きし、挨拶と交流を兼ねてお話を伺いながら、在日大韓基督教会の歴史と現状を学ぶ時を持つ事とした。
次回委員会は、六月三〇日に開催する。
(佃真人報)
第35総会期第九回教師検定委員会が、一月二六日(月)~二七日(火)、教団会議室において、委員七名全員が出席して行われた。
委員長・事務局報告において、次の通り報告された。第36回教団総会(一〇月二一~二三日)で秋季教師検定試験合格者(正教師五九名、補教師九名)が承認された。第36総会期第一回常議員会において本総会期教師検定委員が選任された。なお、二〇〇九年春季教師検定試験は、慣例通り、第35総会期教師検定委員会である 当委員会が担当することが確認された。
次いで、二〇〇九年春季 教師検定試験の準備を行った。先ず、補教師受験志願者七六名と正教師受験志願者十五名の受験資格を、個別に照合した上で確認した。試験に関しては、次のように協議をし、決定した。先ず、提出物(釈義、説教、神学論文等)の採点結果を突き合わせ、合否判定、再提出等、それぞれを確定した。続いて、学科試験問題を作成し 、決定した。個人面接については、受験者の居住地に配慮し、原則として第一日目が東京近辺以外の受験者、第二日目は東京近辺居住者とすることとした。
また、試験会場である日本キリスト教会館の研修室と教団会議室の用い方について確認した。
また、カトリック教会で叙階された者の教師転入志願の扱いについて協議をした。その結果、前例のないことであり、その扱いについては信仰職制委員会に諮問することに決定した。
受験費用援助に関して、今回申請書を提出した二三件について、これを検討し、承認した。
前総会期の常議員会において教師検定規則第四条が改訂されたことに伴い、委員長・書記等が関係神学校・神学部に訪問したことが報告され、教師委員会の了解のもとで、今後当委員会と関係神学校・神学部との間で協議の時を持つことが確認された。
今回も総数九一名と、多くの受験志願者が与えられたことを感謝しています。受験準備の上に、主の祝福と支え・導きを祈ります。
(倉橋康夫報)
キリスト教医療ミッションの現場から 大江 浩(JOCS総主事)
タンザニア
幼子の命を守る-大地に根を張って
JOCSは二〇〇七年にタンザニア・タボラ大司教区へ清水範子ワーカーを派遣しました。タンザニアを取り巻く周辺諸国は紛争が絶えず、同国自体の貧しさにも関わらず(失業率は44%超)、難民庇護国となっています。一昨年夏、六〇〇キロの道のりをひたすら走り、清水ワーカーの活動地を訪れました。車窓から見え たバオバブの木は、大地にしっかり根を張って生きていました。
タボラ大司教区の保健部門は、一つの病院、三つの保健センター、五つの診療所を管轄し、同時に地域に根付いた保健医療協力を行っています。清水ワーカーの活動は、保健部門でのマネジメントと、イプリ保健センターでの助産婦としての活動がメインです。イプリ保健センターでは、三つの村を巡回し妊婦健診と五歳未満健診 をしています。
「イプリ保健センターのほとんどの子どもの入院は、マラリア・低栄養・貧血によるものである。子どもたちは繰り返し入院してくるケースもあり、最終的には亡くなってしまう。この悪循環をどのように改善していけるのか。…タボラの人々と共に生きること、共にできることを一緒に考えていきたい」(清水ワーカー月例報告 )。タンザニア・アフリカのことを少し紹介したいと思います。
「サハラ以南のアフリカでは、熱を出した子どもの三分の一しか抗マラリア薬を使っていない…出生登録率そのものが著しく低いタンザニアでは富裕層と貧困層との間で大きな格差があり、最も富裕な20%の層では子どもの25%が登録されているのに対し、最も貧しい20%の層ではわずか2%しか登録されていない(平均8%)… サハラ以南のアフリカだけで、HIVに感染した二三〇〇万人のおとな(十五~四九歳)のうち、一三一〇万人(57%)が女性…二〇〇六年の段階で、HIVとともに生きる十五歳未満の子どもの数は二三〇万人に上る…サハラ以南のアフリカだけで、二〇一〇年までに約一五七〇万人の子どもがエイズによって孤児となる見込みで ある」(世界子供白書二〇〇八)。
新しい命の誕生を守る、そしてその未来を支えることが清水ワーカー・タボラ大司教区の保健部門のスタッフのミッションです。生まれる前のHIVの母子感染を防ぐこと、児童期の大切なときにエイズによって親を失う子どもたちを少なくすることも大切な役割です。ただひたすら祈らざるを得ません。
清水ワーカーが指摘するように、タンザニアはマラリア禍にも苦しんでいます。エイズだけではなく、結核・マラリア・ハンセン病など、貧困と密接に関わる感染症対策はJOCSが各地域で取り組んできたことです。エイズ撲滅が叫ばれる陰で「見えない事実」、結核は年間約九〇〇万人が発症し、約一七〇万人が死亡。マラリアの年間罹患者数は三~五億、一五〇~二七〇万人が死亡という統計があります。人間は「数字」ではありません。しかし数字はある真実を物語ります。
「タボラの道の両端にはマンゴーの木がきれいに並んでいる…リビングストン博物館でその訳がわかりました。かつての奴隷売買時代に、キゴマからバガモヨ海岸へ東に九〇〇を奴隷が首に鎖をつけ二列に並んで歩いた道中に、マンゴーを食べてその種を落としたので、道の両端にマンゴーの木が並列していたのです。…Dr. David Livingstoneがタボラに一年間住んで奴隷売買禁止の大変な努力をされたこと、医師としてまたクリスチャンとして多数の人々のために活動したこと、彼の偉大な活動に感銘しました」(月例報告より)。
リビングストン博物館には私も訪れました。開拓時代の宣教の歴史が刻まれていました。
清水ワーカーの働きはタボラの人々と共に生きること。そしてその恵みを私たちは得ています。
カンボジア
泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜ぶ
JOCSは、カンボジアで長く続けてきた母子保健活動を二〇〇六年十二月に終了し、諏訪惠子ワーカー(看護師)は二〇〇八年二月から新しいミッションに従事しています。「レナセール=女性と共に歩む会(RWW)」という日本のカトリック礼拝会のシスターたちが運営する女性のためのシェルターでの活動です。 レナセールとは、スペイン語で「生まれ変わる」という意味で、二〇〇九年一月現在、女性八人と同伴児九人(うち一歳未満児四人)の計十七人が入居しています。シェルターで暮らす女性たち(クライアント)は、性的搾取やDV被害の犠牲者で、諏訪ワーカーの働きは入居者の安全、安心、健康的な日常生活を守り、再び、社 会生活に戻っていけるよう支援することにあります。そのために、彼女たちの身体面に対するサポートと共に傷つき凍てついた心を癒すことも大切な役割です。
私たちは、諏訪ワーカーの働きを契機として、クライアントが生きてきた現実を学んでいます。カンボジアは長く悲惨な戦争が続きましたが、奪われたのは命だけではなく多くの人々の「未来」です。破壊しつくされた国に残されたのは深い心の傷と「貧困」という構造的な暴力です。和平調停が成立してから十五年たった今も、 その暗闇の歴史は封印されたままです。女性や子どもたちは搾取の対象であり続け、「声なき声」はかき消されてきました。
一昨年、国際子ども権利センターのシンポジウムでカンボジアのソマリー・マムさん(文芸春秋『幼い娼婦だった私へ』著者)のお話を聴きました。ソマリー・マムさんは少数民族として生まれ(父母の消息は不明)、十四~五歳で兵士と結婚させられ、まもなく買春宿に売られました。拷問を受け、暴行される日々が八年続き、 幸いフランス人と結婚。その後、女性救援組織を設立し、買春組織と闘っている女性です。彼女はサバイバー(生存者)として、今は同じような境遇にある女性たちを支援する側にいます。しかし、マムさんは稀な例かもしれません。多くの女性や子どもたちは「被害者のまま」生きざるをえません。生きていたならば…。カンボジ アのみならず、世界各地の「多くのソマリー・マムさん」が日々暴力に晒され、虐げられつつ生きています。アジアの人身取引や児童売買に、日本が少なからず関わりがあることは知られていません。残念ながら。
RWWは、カンボジアで貧しく弱くされた子どもたちや人々に関わってこられたシスターたちによって始まりました。RWWは、カトリックとプロテスタントの協働の証です。心も体も未来も人生もずたずたに引き裂かれた女性たち。深く傷ついた人の話を聴く人も傷つきます。重荷を共に負うことでつぶれそうになります。絶望の淵にある女性たちはささやかな幸せ、温かさ、微かな光を求めています。諏訪ワーカーやシスターたちの「泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜ぶ」働きは、女性と子どもたちの命を支えています。大切な「地の塩」として。
「学生のころからマザーテレサの活動に目を向けるようになった諏訪さん。卒業後、日本のハンセン病療養所で働き、インドを訪問して貧しい路上生活者の姿が心に留まった。…」(カトリック新聞二〇〇七年六月三日号)。諏訪さんは、その後、カンボジアでの活動に従事します。「私が行き詰まったときにカンボジアの人のそばにいることで、無力な自分に力をくれるのは彼らだった。それに気づいた時、怖いもの知らずにいろんな所に足を運べるようになりました。貧しい人が実は強い。パワーを持っています。…」(同新聞)。
諏訪ワーカーの働きを祈りつつ支えたいと思います。
▼知名度や氏子の数では出雲大社が圧巻だが、松江周辺には他にも歴史と物語に彩られた多くの神社や寺がある。縁結びについては出雲大社より歴史があると言われる八重垣、本殿が国宝の神魂、周囲の景色が美しいことでは日御碕と美保、温泉もある熊野、他にもきりがないくらい。寺に関しては小泉八雲の描く通り。▼何 よりも驚かされるのは、戸数せいぜい数百の集落に、とてつもない規模の寺社があること。山門には運慶作の金剛力士像を持ち、海辺から標高五〇〇mの山頂近くまで石段の参道が続くというような。▼出雲の国では、未だに寺社への信心が生きている。教会は、これに向かい合い、時に戦わなければならない。赤い糸かどうかは知 らないが、地域の姻戚・人間関係は複雑に入り組み、むしろこんがらがっている。その地域社会と、時に共存しなければならない。▼だから、教会の信仰もまた生きている。そうでなければ到底太刀打ちできない。神話の国の物差しで測った時に、未だ歴史が浅くて、子ども並に体が小さいだけだ。
▼出雲のぞみ▼秋鹿▼松江古志原
しかし、過疎化率日本一の島根県こそが、数字的に見れば最も伝道不振の地であると、ほぼ断言できる。
人口七四万の県下に日本基督教団の教会は九、他教派の教会も少ない。九教会の合計で、現住陪餐会員二三二名、礼拝出席一六〇名、東京には一教会でこれを上回る所が少なくない。一方で、大社教の信者は全国に四〇〇万人とも言われる。
因みに人口こそ一一〇万と多いが、同じ九教会の富山県は、四五三名と三二五名で、約倍。福井県は両者の間くらい。人口六七万のお隣り鳥取県は島根の倍。
教団宣教委員会は、昨年九月十五~十六日、松江市と出雲市の五教会を訪問した。教団新報もこれに同行して、短い時間ではあったが、この地で働き生活する信仰者・伝道者の声を聞くことが出来た。祈りに覚えていただければと願い、訪問記を掲載する。
建築に際して、出雲駅から歩いても遠くない場所から、車が無ければ通うのが大変な郊外地へと移転した。しかしこの場所は、小学校に近く、真新しく小綺麗な会堂を訪ねる大勢の子どもたちの顔がある。近隣に新たに幼稚園が出来るそうだ。二〇〇五年に赴任した齊藤善子師は、古い歴史を持つ町の新興住宅地に立てられた教会 が、子どもたちと共に成長して行くことを願い、教会の未来像を思い描いている。
九月十四日の週報には、隠岐で開催される分区信徒大会の案内が掲載され、消息欄には、北海道に転居した会員が興部伝道所に出席していることに触れられていた。礼拝出席十一名の小さい教会だからこそ、地域・分区は勿論、全国諸教会との交わりの中で命を持っている。
会堂建築記念小冊子の表題は「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」最初の頁に出雲のぞみ教会役員会による巻頭の辞がある。見出しは「私たちは見た、神の御業を」。後々までも教会員の心の支えとなる、なんと幸せな体験だろう。
丘の上に建てられた、絵本に出て来るような小さな美しい会堂で懇談の時を持った後、最寄りの教会員宅を訪問した。下の写真をご覧いただければ細かい説明は無用だろう。加藤家は、当主が旧秋鹿村の村長や地場企業の社長を務めた土地の名家。この家から多くの信仰者、献身者が生まれた。秋鹿教会自体は小さくとも、その流 れを汲む人々は全国に散らされ、各地で信仰生活を守っている。
秋鹿に限らず、農村部の教会は、一人の篤信家によって建てられ守られることが多かった。ややもすれば何々家の教会になってしまう。その功罪という言い方がなされるが、これらの家、人の存在なしには、その地に教会が存在できなかったこともまた確かだ。
かつて新卒の女性牧師がこの地に赴任し、二〇年近くを過ごした。隣家まで数百メートル、夜は真っ暗闇、車もなかった。月に二回ほど単線一両だけの電車に乗って松江に出、先輩牧師と共に学ぶことが唯一の楽しみだった。「青春の全てを献げた」と、一〇年ほど前に偶然会った時、この牧師は涙した。勿論無念・後悔の涙では ない。懐かしい日々を追憶する涙だ。
信徒の奉仕と、献身者の犠牲的な働きの上に、教会は立てられている。
田園の独特の雰囲気素朴な交わりに惹かれてか、敢えて松江や出雲など遠方から通う教会員も少なくない。二〇〇八年六月に就任したばかりの今井靖清師もその一人か。
戦後間もなく、教団で按手を受けた角井義雄師の開拓伝道によって生まれた。角井師は島根県の福祉関係の役人として勤務しながら伝道・牧会に当たった。既成教会の常識・通念に拘らない極めてユニークな教会形成を貫くために、五〇年単立を続けた。一方、長く松江市内牧師会の会長として、牧師たちの交わりの中心であった 。戦災孤児を引き取り、他人の借金の保証人となり莫大な借金を負うこと三度、桁外れの人情家、小柄な豪傑だった。「人間は型破りかも知れないが、信仰的にはごくオーソドックス」を自負していた。晩年、単立の限界を痛感する。後継者を得るためにも、教団加入を指向した。その準備が整えられない内に病に倒れ、召された。?
真の後継者は、残された信徒たちだった。二〇〇五年、教団加入が成り、牧師個人宅と教会堂が混然としていた敷地が整備され、教会の体裁が整えられた。若い鎌野真師が赴任、新しい歩みが始まった。それこそが、角井師の祈りであった。
次号(松江教会、松江北堀教会)に続く。
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