中部教区愛知東地区 推進座談会報告
二月十五日(日)午後、岡崎教会を会場に中部教区愛知東地区推進座談会が開催されました。
この会の開催について杉本誠地区会長(西尾教会牧師)に相談しましたところ快く引き受けてくださり、地区の集会などで諸教会・伝道所の出席が薦められました。また岡崎教会は会場を快く提供してくださいました。地区の配慮に支えられ、開催することができたことを、心より感謝いたします。
参加教会六教会。参加者数は二三名(推進委員二名を含む)でした。
讃美歌21五〇五を賛美、聖書テモテ一2章1~3節を朗読、大杉弘委員長が開会のお祈りを捧げました。
大杉委員長は、挨拶と「支える運動」の原点とこれまでの歩み、そして現在の運動方針等を説明、質疑応答へと進みました。
話し合われたことは概ね次のようなことでした。
既に参加している教会からは、①この献金が隠退された先生方に直接届けられると思って献げてきた。②始めた当初は〇円だったが年々増えている。③担当者として指名された時は、自分にできるかと心配しながら引き受けたが、今は楽しく奉仕している。一人ひとりに声をかけることが大切、などといった発言があり、とても励 まされました。
未参加の教会から、①一口百円と言うと百円でいいと思ってしまうのではないか、②地区ごとの座談会もいいが各個教会を巡回することも良いのでは、③この運動の必要金額は、基金化は出来ないのか、④教区ごとの謝恩日献金と百円献金の割合は、といったような発言があり、これを受けて、応答させて頂きました。二〇〇八年 度計画額を見て、広報費・業務費に無駄があるのではないか、との厳しい質問があり、『「支える運動」三〇年誌』発行費用を計上していること、目下編纂作業に努力していることを回答し、理解を求めました。
杉本地区会長によって、感想と閉会祈祷がなされ、感謝のうちに推進座談会を終えました。
(須田静代報)
「父が見ているもの」に気付かされ
飯塚拓也(竜ヶ崎教会牧師)
私の献身は、牧師であった父の死がきっかけです。
私が高校三年の終わりの頃に、父は直腸癌が見つかって手術を受けました。当時、告知はまだ一般的ではなく、父にも特に病名は知らせませんでした。けれど、父は知っていたようで、「僕は癌に勝った」と退院後親しい人に語っていました。二年後に癌が再発し再入院となりましたが、癌が全身に転移し手の施しようがなく、約 半年の病院生活の後に天に召されました。
この再入院の期間は、母が教会と付属幼稚園を守り(岐阜県の農村教会でした)、大学受験に失敗し名古屋で浪人中だった私が父の世話をすることとなりました。癌センターへの入院でしたので、昼過ぎに病院に行って、夜に下宿に帰る毎日でした。当時は病状が重くなると二人部屋に移ったのですが、夜に病院を後にして翌日行 くと、隣の方が変わっていることがありました。それは、自分が癌であることを知る者には、残酷な現実でした。
「もし、自分だったら」と、ベッドに横になっている父を見ながら考えたものです。「どうせ死ぬなら家に帰りたい」と叫ぶだろうし、人生への未練や神さまへのうらみの一つぐらいあって当然だろうと思いました。けれども、父はそのようなそぶりは全くなく、むしろ死ぬ時が近づけば近づくほど、文字通り「幼子のような瞳」 となっていったのです。「平安」がベッドを包んでいました。
ある時に、思い切ってこう尋ねました。「これでよかったの?」
この問いには、私の子どもの頃からの心の叫びが含まれていました。父は農村教会の牧師で、文字通りの田舎牧師でした。手ぬぐいを腰からぶら下げ、土の匂い・汗の匂いが父の匂い。農繁期の日曜日には誰も礼拝には来ないと分かっていても、説教を準備し、母と二人の礼拝を守る人でした。素朴で不器用な牧師で、富も名声も 求めない人でした(家族としては、富も名誉も少しは求めて欲しかったのです)。ですから、「どうして神さまはこんな形で父の人生を終わらせようとするのか」と私には納得がいきませんでした。何より父はどう思っているのかをどうしても聞いておきたかったのです。
私の問いに対して、父は確かにうなずきました。言葉はありませんでしたが、このうなずきは「これでよかった」と語っていました。私は、後ろから思いっきり頭を殴られた気がしました。目が覚めたというのでしょうか、「父が見ているもの」に気付かされたのでした。富や名誉ではなく、『神の国』を求めていたことを。
心底、「うらやましい」と思いました。「自分も、これでよかったといえる人生を送りたい」と願いました。これが、私の献身の理由です。ある意味、不純かもしれません。自分のため、なのですから。
父の葬儀を終え、納骨を終えた帰りに、母に献身を伝えました。「学費は自分で働くからいいよ」と言いました。すると、「学費はある」と母がいうのです。「お前が生まれてから、いつか神学校に行く日が来ることを祈って、蓄えておいた」と。私を「拓也」と名付け、「この子が将来献身して、開拓伝道を使命とするように」 と願って、日々祈り蓄えていたことを初めて明かされました。高校生の時期には大反抗をして、いかに教会から離れようか、間違っても牧師には決してなるまいと誓い、狼藉をつくしたその時にも、私は祈られていたのでした。
この話しはできすぎのようですが、でも本当の話です。
田中嘉雄氏(隠退教師)
一月二八日、逝去。八三歳。東京都に生まれる。一九六〇年日本聖書神学校卒業後、本所教会に赴任。その後六一年から教団総務局に教務教師として勤務し、六二年から九五年まで松代教会牧師を務め、隠退した。遺族は妻の弘子さん。
第36総会期第一回年金局理事会が一月三〇日(金)開催された。最初に髙橋豊理事長を選任、引き続き籔田安晴副理事長、池田浩二、中林克彦、疋田國磨呂の各常任理事を選任、内藤留幸総幹事を含め六名の常任理事会メンバーを選任、書記は池田常任理事が担当。また、常任理事会の下に設置されている資産運用と制度検討の各諮問委員会は夫々、籔田副理事長と中林常任理事が担当し 、外部の専門家を含む体制でひき続き行っていくことを承認した。教区代表理事のリストは、教団新報第四六六七号をご参照ください。
また、今年度から財政規模の大きい東京教区が五支区代表を指名し、支区の教団年金の活動を強化して行くことになった。五名の内、年金局理事・監事でない二人は陪席者として理事会に出席願うことを承認した。
新しい体制の下、祈り、知恵を絞りながら、教団年金を守りぬくよう一同認識を新たにした。
(櫻井淳子報)
互助は、伝道の武器 野村忠規
四国と言えば互助、互助と言えば四国。四国教区は四〇数年ただ
ひたすら、互助を教区の最重要課題として取り組んで来た。それは、現実に教区内に伝道の困難を抱える小教会が多いから、協力しなければ立ち行かないからだ。しかし、この四〇数年の歩みは簡単ではなかった。まさに「荒野の四〇年」、たびたび危機を体験した。
しかし、その度に皆で悩んだ。激しく議論をした。そして祈った。
そして、その度ごとに、不思議と新しい道が拓かれて来たのである。
先日も教区内の互助の意見をまとめる会があり、互助の課題について話し合った。互助を受けながら伝道に専念する教師が言われた。
『よく「伝道の最先端でのお働きを感謝します。伝道の実りは簡単には与えられないでしょう。しかし、そこに立ち続けて下さい」とこのような励ましは有り難い。しかし、その場に立ち続けると言っても、何の展望もなく、孤立したままでの戦いは辛い。しかし、ある時、自分の教会と隣の教会との間に、伝道の空白地があることを発見し、隣の教会との協力伝道が始められた。この協力伝道の経験から、新しい展望が開かれた。それは、携帯電話 が使える範囲を広げるため、電波中継場を次々と設置するように、福音をこの地に伝えるために、孤立した点からもう一つの点に線が伸び、線が面を形成し、この四国の地に、伝道が拡大される事を知らされた。互助は、その伝道の武器となるのです』と。(四国教区総会議長)
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