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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4671号】荒野の声

2009年3月28日

▼新報を一号発行するごとに、十人もの関係者が、延べ数十回もの校正をしているのだが、それでも間違いはなくならない。▼漫然と読んでいては駄目で、例えば人の名前を間違えていないかという一点に絞って探らないと発見できない。同様に「用語の不統一はないか」「不快を与える表現は」と何通りにも網を下ろす。引き上げても、大抵何もかからない。これを何度も繰り返しても、なお編み目(オット!)を潜り抜けるものがある。「粗探しは苦手だ。お人好しには無理だ」と叫ぶ編集委員もいる。▼粗探しの対義語は何だろうと考えている時に、『ヘブンアイズ…デイヴッド・アーモンド著、金原瑞人訳、河出書房新社』に出会った。「すごくいい子だねだね」「かわいいんだねだね」と、ちょっと言葉遣いがおかしくて、「あらゆるものの中に天国をみつけることのできる目」、「世の中のあらゆる苦しみの中に天国をみいだすことのできる目」を持ち、手に水かきがある女の子・ヘブンアイズが登場する。ヘブンアイズこそ、粗探しの対義語か。▼ヘブンアイズでない限りは、何度も、何通りにも網を下ろすしかない。一回ごとにテーマを持って。粗探しする程の熱心、執着を持って臨めば、どんな出来事の中にも、どんな人間の中にも、良いものを発見することができるかも知れない。

成し遂げられた御心 ヨハネによる福音書19章28~30節

佐々木美知夫

あがないこそが父の御心

受難節の中、私共はイエス・キリストの御苦しみを記す御言葉を繰り返し読んでまいりました。そしてそこに示される事柄が詩編22編やイザヤ書53章など多くの旧約の言葉に結び付くことを信仰をもって受け取ってきたのです。「聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)という主イエスの言葉を思い起こしながら、主御自身がそれらの事柄を担い、父なる神の御心がそこに成し遂げられてゆく有様を私共は信仰によって見せていただいているのであります。
今、与えられております御言葉もイエスさまの十字架での最期を記したものであります。わずか三節の御言葉でありますが、ここにイエスさまの地上での御生涯とその御業が集約されていると受け取ってもよいでありましょう。十字架の苦しみと痛みの中で主が語られた二つの言葉と死に向かわれる様子が示されている部分です。
ここには三度同じ意味の語が出てまいります。「成し遂げられた」「実現した」という言葉です。口語訳では「終わった」と訳されていましたが、「終える」「完成する」という意味の言葉です。28節に主イエスは死に際し、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」と記されています。29節の酸いぶどう酒を人々が主イエスに飲ませようとしたことと合わせれば詩編22:16や69:22の御言葉の成就であり、主が辱めと苦しみを担われたことを私共は深く知ることができます。ヨハネは聖書の言葉が成し遂げられたことを示していますが、それは主イエスがその御生涯を歩み通し、十字架の上で御自分の肉を裂き、御自分の血を流して立てられた私共のあがないこそが父の御心であったことを明らかにするものです。

主がそれを完成して下さる

私共はそれぞれの人生を歩みますが、人生を完成して終わる(成し遂げる)などということは到底考えられません。人として自分の納得に於いても、人々に対しても、そして神の前にも、不十分どころか本来終わるに終われない状態で去って行かねばならない者です。とりわけ人生の意味について、悲しみや苦しみについて、自分の罪については自分の力で解決や希望を持てない者です。自分という存在であり、自分の人生であり、自分の問題でありながら私共はそれを本当には担うことができません。
しかしそのような私共に対し、聖書は主イエスの十字架の死と復活を指し示すのです。しかもその出来事は私共一人一人のために成し遂げられた神の御心であるとはっきり告げています。ですから教会に於いて御言葉が語られ、主のあがないの業が語られるというのは、まさに私共に対する神の御心が一人一人の存在と人生に具体的に示されているのであり、主がそれを完成して下さることが明らかにされているのです。
酸いぶどう酒を受けられた主イエスはかつて「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4:34)と語られました。ですから、ここでは十字架の苦しみと死の中に立つ主イエスが、私共のために父の御心を行い、その業を成し遂げておられることが証されています。
それ故にこそ私共も主の御受難の出来事と向き合う時、その御苦しみがこの私の救いのためであったという真実な告白なしに主の恵みを味わうことはできません。信仰を持って主の十字架の下に立ち、主の肉が裂かれ、主の血が流され、主の死によって神の裁きと義が全うされたことを聖霊の導きにあって確認し、救いにあずかるのです。
そこでこそ自分の存在と人生に主御自身が深く関わり、これを成し遂げて下さることを確信するのであります。

その深い愛によってこそ

30節には「成し遂げられた」という主の言葉があります。そして主の死が告げられています。この言葉と事実は常に主の救いの御計画が私共の中に実現していることを示すものです。
また主の復活と共に、再臨の日まで私共が導かれて行くことを指し示しています。
受難週を迎える毎にあらためて神の御心の測りがたさを思います。自分のような罪深い者、神に背く者を尊い御子の命によってあがなわれる神、その深い愛によってこそ私共は人生を希望の中に生きるものとされるからです。
終わるに終われない人生ではなく、主にあって罪赦され、喜びを持って生き、死を越え、真の命に生かされる者として歩むことができるのです。
「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた」(ヨハネ14:26〜28)と主イエスは語られました。教会はこの聖霊に導かれて主の十字架のあがないと恵みを御言葉と聖餐において繰り返し味わい、世の人々に向かって主の再び来られる日まで常に主の死を告げ知らせるのです。また主の復活に示された永遠の命を告げ知らせます。それが伝道であり、教会形成の根幹です。
受難週は教会がそして肢なる人々が聖霊によって強められる時です。とりわけその信仰が強められ、証と伝道の業が強められる時です。私共の信仰をそして人生を主が導き、成し遂げて下さることを信じて、共にイースターの喜びに向かう時であります。
(静岡教会牧師、教団総会副議長)

2009年3月14日

「教会史」の編纂が進められている最中に着任したので、その作業に加えられることになった。この教会の歩みを深く知る機会を得たのである。専ら書かれた原稿を読み、文章の推敲や校正を共にして、先達の働きや苦労に出会っていく。教職や宣教師、信徒の方々の名前を覚えながら、神様の不思議な御業に驚き、感謝に 満たされる時を持った。しかし「前史」の中で原主水を始めとする17世紀の駿府キリシタンの出来事をも同時に教えられたのである。
実は先日、市内キリスト教連絡会の席で駿府キリシタンの殉教についてカトリックの司祭から話を聞く機会を得た。その話によれば一六一四年「伴天連追放令」から一六三一年駿府最後のキリシタン五名の処刑までに、(文書の記録がないので言い伝えによる数として受け取るほかないが)千人を超えるキリシタンがこの地で殉教 したというのである。名も知れぬ多くの先達と命をかけた信仰の上に明治の伝道も再開されていた。このような事例は全国各地にあるだろう。
私共の教会は数度の火災で建物や資料が焼失している。当然、多くの先達について名前も分からない。しかし主がその方々の歩みと祈りを受けとめ、御自分の業を進められること、教会を再臨の時へ導かれることを教会史編纂作業を通して深く教えられる。命の書に名を記された多くの先達と共に主の約束に与る将来、そこに日々 の現実を歩む私共の希望と謙遜また伝道の喜びが育まれている。
(教団総会副議長 佐々木美知夫)

正しいみ言葉を求めて
 「み言葉が正しく宣べ伝えられていない」。平和の世紀への希望が文字通り音を立てて崩れていったあの「九・一一」。神の名が騙(かた)られ、人が殺されていくあの事件を目の当たりにしながら、網中さんは、み言葉の無さを見た。「取り次ぐ者がいなければ」。
小中高を過ごした東洋英和女学院時代、「命はどこから来たんだろう(そしてどこへ)」という問いから、中学三年の時に神様を求めて聖ヶ丘教会へ。半年あまり後に受洗。高校時代は牧師になろうと、真面目に伝道のことを考えた。当時の宗教主任の先生に、「牧師になるためには何が必要ですか」と尋ねたところ、「召命感で す」と返され、「そうか、それでは神様が必要としてくださる時が来るまで待とう」と決心したという。高校三年の時である。
時を待ちつつ立教大学のキリスト教学科で学び、外の世界を見るためにテレビ番組の制作の仕事に携わった。そこでも、意外なキリスト者との出会いもあって、「囲まれている」と実感(覚悟)した。
「神様が必要としてくださる時」は、意外な時に意外なかたちで、九・一一と共にやってきた。しかし、み言葉を正しく宣べ伝える者が必要だという思い、自分がそのために召されているという確信が固められた。
すでにその年には教団総幹事秘書の仕事を始めていた。教団での勤めを通して、実に多くの牧師や信徒たちと接し、改めて異なる信仰に驚かされる。しかし今から顧みれば、それによってかえって、「正しいみ言葉」への求めと「礼拝への集中」へと導かれたのだと思う。
仕事の都合上、神学校に行くことはできず、いわゆるCコースで教師試験を受験。制度的な課題を感じながらも楽しく激しく勉強に打ち込み、正教師試験に合格した時は泣けた。「いま、本当に信徒に祈られて牧師として立っています」。今日もみ言葉を正しく宣べ伝える務めの嬉しさを味わっている。
*ミッション21、アジア青年会議及びアジア部会総会
◎日程 5月17日~24日
◎場所 サバ(マレーシア)
◎主題 平和の源としての宗教
◎費用 ミッション21負担
*台湾ミッション2009/国際青年会議
◎日程 6月30日~7月17日
◎年齢 35歳まで
◎費用 航空運賃半額負担
  締   切/4月17日
問い合わせ/世界宣教部
電話(03)3202-0544
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