書記報告・総幹事報告で長時間の審議
原田謙常議員辞任、木下宣世氏を補充
第36総会期第2回常議員会が、7月6~7日、定例のごとく教団会議室で開催された。開会の祈りの後、蜘蛛膜下出血を病み療養中の原田謙常議員から、夫人の代筆による辞任届が提出されている旨、原田常議員の病状・近況を含めた報告が、山北宣久議長よりなされた。辞任届は承認され、次点者の木下宣世氏を補充することを議決した。
議案1「陪席者」に関する件で、議論があった。石橋秀雄常議員は、教団総会の聖餐式時、菅沢邦明氏が、「別途パンと葡萄酒を配り聖餐を軽視する行為を行った」ことを理由に陪席は認められないとし、個別の陪席者承認を求めた。一括採決すべきという意見もあり、結果、28人中16人が、個別の承認案に賛成し、菅沢氏については陪席承認は11人に止まり、陪席は否決された。
議事日程承認の議事で、向井希夫常議員(大阪教区議長)提案の、議案30号については、北紀吉常議員より、「議案に本文がない。議案の体裁をなしていない」との指摘があり、議論となった。愛澤豊重総務幹事も不備を指摘した。そこで、「議案については、形式を事務局で整えてほしい」との意見があり、一方で「過去に、事務局で整理した際に、越権行為だと批判された。事務局に責任転嫁するな」との意見もあって、紛糾した。
愛澤幹事は、「事務手続きの準備段階で申し出てほしい」と述べた。
山北議長が、議案の成否についても、議案審議で行うこととし、「今は議事の内容審議には入らず議事日程を承認して欲しい」と求め、承認された。
書記報告について、和田献一常議員から、「教団諸委員会各委員の選考について、経緯の説明、手続きについて明らかにしてほしい」と意見が述べられた。山北議長は、その手順等について説明した。
長山信夫常議員は、「上田博子幹事辞任の件が載っていない」と、疑念を述べた。内藤留幸総幹事は、これに答えて、本人納得のことであると上田幹事辞任の経緯を述べ、今後の教団世界宣教体制について、基本的な考え方を説明した。
その他、「教団問安使報告を取り上げてほしい」などの意見が述べられた後、極めて異例な程に多項目、長時間の質疑が行われた書記報告は、挙手多数により承認された。
総幹事報告でも、多くの項目について、多様な質疑がなされ、また、書記報告での質疑と重複した。
「教区活動連帯金」について、江本義一常議員から「教区活動連帯金は崩壊している」との、刺激的な発言がなされ、議論は一気に加熱した。「教区活動連帯金は重要である。この制度は、教団総会の議決に基づくものであり、保留、参加拒否があってはならない」という意見が述べられる一方、高橋潤常議員(中部教区議長)は、「教団内の位置付けが曖昧であり、常議員会で協議しないままに継続することに無理がある。教団総会の議決と現在の制度では内容が違う」と反論を述べた。長崎哲夫東京教区議長は、紛争の混乱の中で、従来の平衡資金が教区活動連帯金となった経緯や理由について詳細を説明し、「教区間相互連帯ができなくなった」と、東京教区が保留せざるを得ない理由を述べた。
宮﨑達雄東中国教区議長は、「『崩壊した』という発言は、教団崩壊という印象を受ける」と危惧を述べた。
この後、「自然災害取組はどうなっているか」との質問をきっかけに、過去常議員会で繰り返されて来た、所謂「兵庫教区二次募金」の処理の議論となった。林邦夫兵庫教区議長は、「総幹事に訪問して貰い返還・取り扱いについて協議したい」と述べ、内藤総幹事は、「二次募金を教団に戻してくれるのなら、何時でも訪問したい」と答えた。この間、「決議事項であり協議の余地はない」と言う意見も述べられた。
その他、「問安使報告」「台湾基督長老教会宣教協議会」、「北村慈郎常議員への勧告についての報告」「東海教区諮問に対する答申」等で質疑が続き、当初の時間配分に支障を来すほどに超過したため、質疑も足早になった。
高橋潤常議員が、戒規提訴の資格問題について信仰職制委員長に質問した。
岡本知之信仰職制委員長は、「答申を確定したが、まだ発送していない。常議員会で要望があれば配布する」と述べ、当該の松井睦教師委員長が、「答申が確定しているのなら、常議員会で要望があれば伺いたい」と答えたため、岡本委員長は、次のように述べた。「教団教師委員会からの諮問『「戒規申立人について」に対する答申に関して』、教憲教規に照らせば、誰でもできる。しかしそれでは混乱するので規定が必要である」。
「戒規乱用が懸念される」という反論に対しては、「戒規は裁判手続きとは違う。相手との対話である」と説明した。
総幹事報告は承認された。
(新報編集部報)
第36総会期第2回年金局理事会が開催された。
6月18日(木)~19日(金)開催された年金局理事会で、2008年度年金局事業報告ならびに決算に関する件、2009年度年金局財務計画額補正に関する件、および2010年度年金局財務計画額に関する件を審議し、承認した。この2案は第36総会期第2回常議員会に議案として提出することとなった。
2010年度の謝恩日献金の計画額は2007年度、2008年度、2009年度同様1億1千万円を計上した。
2008年度の謝恩日献金の実績が目標値の41%にとどまったことについて各教区の状況の報告がなされた。その上で2009年度の謝恩日献金の実現については「各教区はそれぞれの事情に応じた相応しい方法で努力することとし、その時の献金目標値は、教区の負担金の賦課率による」ことを再確認し、目標値に近づけるための方策を協議した。そして各教区代表理事が教区目標額達成のためにそれぞれ努力している状況を報告し、情報を共有した。これは今後方策を練る上にも、お互いに大変参考になる話し合いとなった。髙橋豊理事長は「謝恩日献金」の実現に向けて、各教区代表が苦心努力していることに謝意を表した。
また「謝恩日献金」は教会として、そして教区として取り組んでほしいので、教区三役、常置委員会に積極的に働きかけ、充分な理解を得て、実現のために努力してほしいと述べ、出席者は認識を新たにした。
また7月の第2回常議員会の議案審議の中でも年金局からこの旨を訴えることにした。
(櫻井淳子報)
日本盲人伝道協議会の主事として期待される
金澤真実さんの歩みは、人を包み込む穏やかな話ぶりからは想像できないほどのパワーあふれるものである。まず高校生のとき、仙川教会で高校生会聖研の学びを通して導かれ受洗。神学校への献身も考えたが、結局は忠実な信徒として教会を支えるキリスト者になる召命を強く覚えたということである。
大学卒業後、東神大の図書館を経て、YWCAに勤務、ここで一教会・一教団の枠を越えた広い視野を与えられ、途上国でぜひ働きたいという思いが与えられた。そして、青年海外協力隊に参加、1990年から約2年間バングラデシュにおいて活動し、このときベンガル語の訓練も受けた。金澤さんによれば、これも神様の導きであった。
帰国後、国際NGOワールド・ビジョン・ジャパンに勤務、阪神淡路大震災の援助活動に従事する中で、関西在住の盲伝の理事の方と出会う。この方が、バングラデシュの視覚障害女性の生活自立センターに関わっておられ、1993年その開所式の通訳をしたことから、盲伝と関わることになったのである。
その後結婚、夫の学業を支えるためポーランドで青年海外協力隊の調整員として働き、さらに自身の研鑽のためにアメリカに行き、大学院で非営利組織のマネージメントについて学ぶ。
奇しき出来事の末、、乳癌が見つかり、闘病生活も経験。主の癒しをいただき、ボランティアから盲伝の主事として用いられることになった。
今後の抱負を聞くと、「盲伝は私のものではなく、会員みんなのものだと思うから、みんなの思いが実現できるようなことをしたい。ただ、まだ1年目でそれが何かはまだ掴めていないけど」ということであった。
今の課題の一つは、中途失明の方々への伝道である。さまざまな宗教から勧誘を受けた結果、宗教に不信感を抱く方々とどう人格的な出会いをもち、キリストの福音へと導くか模索は続く。
6月1日・2日の両日、東京代々木の国立オリンピック記念青少年センターを会場に標記の会が開かれた。教団教誨事業協力会の主催で、沖縄、北海の2教区(教団教誨師不在)以外の全教区から30名が参集した。「日本基督教団教誨師会設立に向けて」を主題として論議を深めた。
開会礼拝に続き、参加者の自己紹介も兼ね「教区報告」が行われた。地域毎に施設数、教誨師数、教区状況等の格差はあるが、教誨活動が教区や地区の伝道委員会等の中に位置づけられ、支援予算が計上されており、年毎に支援体制が強化されている状況が報告された。
教団も伝道委員会が、毎年助成金と「宗派負担金」を支弁していることや「全国教誨師連盟(全連)創立50周年大会」特別分担金を負ったこと、さらに伝道委員会担当委員と担当幹事が代表者会等に陪席し、物心両面から当協力会活動を支えていることが感謝をもって報告された。
また、個々の教誨師の課題を話し合う時があり、新任の悩みや先輩の体験等が率直に交換され、先年協力会により発刊された『教誨マニュアル』と共に教誨活動に大いに資する時間であった。
今回のメインテーマ「教団教誨師会設立」については2日間にわたる日程が割かれ、真剣な議論が展開された。発題をとおして、過去の歴史のふり返りと協力会の歩みと限界が語られた。
教団「刑務所伝道委員会」が機構改正で無くなり、自発的に「協力会」が組織された。しかし既に40年以上経過し、時代状況に適合しない部分があること、任意団体であるがゆえに「教誨が教団宣教の働き」意識の希薄や教誨師の個人プレー的理解の者もある。「教団・教区の業」であることの再確認と教団全教誨師の参加が必要であり、仏教・神道等の他宗教との関係と「全連」でのキリスト教の確保のためにも「教団教誨師会」の意義があるとされた。議論の末、設立が賛同、承認され、拙速を避けるために教区代表による「設立準備委員会」を設け、実現を目指すこととなった。
(土橋晃報)
上田光正(美竹教会牧師)
「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(ローマ9章2節)
わたしが献身を決意したのは、ほとんど一瞬のことであった。高校時代から、自分が何になるべきかを思い悩んでいた。しかし、幾ら考えても答は得られず、悶々としていた。教会に行き始めたのは、大学に入った1960年の春。その年のクリスマスに受洗した。
医学部に席を置いたのは、家業を嗣ぎたかったからではない。単に、6年間も時間があり、その間に天職が何であるかが分かるかも知れない、と考えたからである。教養学部を終え、医学部の入学式を終えた日の夜、召命を受けた。何の迷いもなく、むしろ、自分がこの世に生を受けた理由が明らかとなったことを喜んだ。自分の将来と言っても、人生の転換期になったときに、初めてリアルに示されるもののようである。翌朝東神大に行き、仮入学の許可を得た。
献身で一番傷つけてしまったのは、両親である。今にして思えば、どうして一日でも二日でも心の備えをさせて上げてから神学校へ行けなかったのかと、配慮の足りなさが悔やまれる。父は寝込んでしまった。「せっかく東大医学部に入った長男が、最低生活者となるのか」、と。もっとも、家業の方は妹や弟が3人とも医者になったので、嗣がれることにはなった。
わたしは神学校の寮から一生懸命母に手紙を書き、熱心に両親の救いを祈り続けた。しかし、なかなか聞かれなかった。ある夜、夢を見た。両親がわたしの前に並んで正座し、首を垂れながら、次第にわたしから遠のき、小さくなってやがて消えて行く夢である。わたしは夢の中で激しく慟哭し、目を覚ました。汗をかき、心臓の鼓動が痛いほど強くいつまでも鳴り止まなかったことを、今なお忘れることが出来ない。
話は少し変わるが、わたしが神学校を卒業した頃から、日本の教会の講壇では十字架と復活の福音が余り語られなくなっていた。何かが起こり始めていた。わたしは自分の神学をしっかり確立させる必要を痛感し、5年半ほどドイツに留学した。その間に、教団では万博問題、東神大問題、教師検定試験問題などが次々と発生し、宣教の理解をめぐって、教団は時代の嵐に翻弄され続けた。恐れていたことが起こったのである。
その間、わたしの母は遠くへ去った息子の面影を求めるように、教会に通っていたようである。教会に行きさえすれば、息子に会えると思っていたのであろう。やがて信仰を与えられ、寝たきりの父を看病しながら伝道し始めた。父も母を通して信仰を与えられ、死の直前に、洗礼を受けることになった。わたしはわざわざドイツから一時帰国し、父に授洗した。父の死をドイツで知った。その前日の夜、父がかつて見せたことのない、太陽のような笑顔で天に召されて行く夢を見た。わたしの祈りは、10年後に聞かれたのである。
ドイツから帰国し、高知県の安芸教会で6年、石川県の若草教会で5年、そして現在の美竹教会で25年牧会している。
しかし、わたしの心はなお、冒頭の聖句を離れることがなかった。と言うのは、教団は今なお荒れ続け、一時は教勢が増えたように見えても、全体的に見れば、やはり衰微の一路を辿っているからである。あの、わたしの前に正座しながら首を垂れて次第に遠のいて行ったわたしの両親が、再び元気でわたしの前に現れ、大きな笑顔で微笑んでくれたように、教団は甦らないものだろうか、と切にこいねがいつつ祈り続けている。
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