我に従い来たれ 疋田國磨呂(大宮教会牧師)
「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」
(使徒行伝4章12節口語訳)
私が羽咋教会の門をたたいたのは1961年の初春、18歳の時でありました。思い切って教会の玄関を入ると、兄のような若い杉山謙治牧師が迎えて下さり、無我夢中に自分の悩みを訴え、聞いていただきました。「疋田さんの問題は、なかなか難しいですね」と言って、佐古純一郎先生の著書『現代人の不安と苦悩』という本を手渡されました。そして次の週から礼拝に出席するようになりました。
私の悩みは「自分は本当に親に望まれて生まれたのか」という問題でした。4人兄弟の末っ子で母の40歳の時の子供で、妊娠したから仕方なく生まれたのではないかと自分の出生に疑問を持ったのでした。限りなく虚無的になり、勉強も手に付かなくなり、高校を退学し、自殺も考えました。そんなある朝、ルーテルアワーのラジオ放送の話に心を動かされ、招きの言葉に促されて、羽咋教会の門をたたいたのです。
杉山牧師から、「疋田さんは、神に祝福されたから、両親から生まれたのです」と創世記1章28節を示された時は驚きでした。私の父は日蓮宗の檀家総代をする熱心な仏教徒の家でした。私が信じて来たのは、呪い、崇り、罰を与える神仏でした。それゆえ「人間を祝福して下さる神とはどんな神なのか、その神を知りたい」と私の求道が始まったのです。
人間を祝福する神を求めて十ヵ月余り、同年12月24日(日)クリスマス主日礼拝で、「イエスはキリストです」と信じバプテスマを受けました。冒頭の聖句は、杉山牧師が私に下さった御言葉です。
求道中に守った礼拝は、司会兼任で講壇に立つ杉山牧師とオルガンを弾く杉山美智子夫人、ベンチに座っている私と3人で始まることがしばしばありました。その年の礼拝出席は平均6人でした。
洗礼式の夜、お祝いの夕食に招かれた時、美智子夫人が「実は、うちの人は牧師を辞任するつもりでしたが、疋田さんが来られたので辞めることができなかったのです。洗礼を受けて下さってありがとう。うちの人はもう一度ここで牧師をやり直す決心をしたのです」と泣いて感謝され驚きました。生きることをやめようとしていた者と牧師をやめようとしていた者が出会って一緒に礼拝を献げる中に、生ける復活のキリストが働いて下さいました。
私がキリストを信じて立ち上がり、牧師がもう一度やり直そうとして立ち上がりました。「二人または三人が、わたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18章20節)という御言葉は私の信仰の原点であります。
どうしたら杉山牧師を助けて、羽咋教会のために仕えて行けるかと考えました。キリスト新聞の広告を見て、東京の鶴川の農村伝道神学校の酪農研修科で2年間学んで、酪農をしながら羽咋教会に仕えたいと決心し、杉山牧師より推薦状をもらって上京しました。しかし、川崎市にいる長兄の猛反対に合い、酪農研修科の入学は先送りになり、佐古純一郎先生のいる中渋谷教会を杉山牧師より紹介され、東京での信仰生活と苦学が始まりました。
神は、1963年1月3日、インマヌエル綜合伝道団の新年聖会で「我に従い来たれ、然らば汝らを人を漁る者となさん」(マタイ4章19節文語訳)との御言葉を与えて下さいました。それが私への召命の御言葉となりました。
その後、働きながら新宿高校定時制を卒業し、明治学院大学文学部英文科、東京神学大学神学科大学院を卒業して、日本基督教団の教師になりました。柿ノ木坂教会(東京教区南支区2年8ヵ月)、福井神明教会(中部教区福井地区10年4ヵ月)、大宮教会(関東教区埼玉地区22年目)と仕えて来ました。
家族は、妻の勝子も牧師です。独り息子、義也は私が42歳、妻が41歳の時に与えられた、思春期の悩みに対する神様からの答えの子です。今、東京神学大学3年に編入学し、伝道者献身者として備えております。
世界宣教委員会編「共に仕えるために・二〇〇九年-二〇一〇年版」22ページのトップ見出し「パラナ州オリンダ」を「ペルナンブコ州オリンダ」に、33ページ「あとがき」の11行目「小井沼眞樹子姉をブラジルへお送りしました。」を「小井沼眞樹子先生をブラジル、ペルナンブコ州、アルト・ダ・ボンダーデ・メソジスト教会へお送りしました。」に、お詫びして訂正いたします。
石井裕二氏(隠退教師)
8月8日、逝去。78歳。大阪府に生まれる。’64年同志社大学大学院を卒業、関東学院大学神学部に赴任後、ハーバード大学留学、’69年同志社大学神学部に赴任、01年隠退した。遺族は、妻・多恵子さん。
新たな伝道の気運を 小出 望
始めに、過ぐる8月11日に駿河湾を震源に起きた地震につきまして、各教区よりお見舞いをいただき、心から感謝申し上げます。被害は軽微でしたが、当初は気が付かなかった被害が見つかっており、各教会の被害状況を改めて問い合わせているところです。
さて、5月に行われた東海教区総会では、互助制度の新しい案が採択されました。財源不足と互助申請教会増加に対応するためで、教区として行う互助の規模を84%に縮小したのです。
東海教区は伝道を大切にしてきた教区です。機構改正をせずに、伝道部の中に青年、婦人、農村伝道等の専門委員会が置かれていることにもそれがうかがえます。その故でしょう、昨年教団財務委員会が制作したDVDで、最も健全な財政・教勢の教区とされました。
互助新制度は2011年度から施行されます。互いに顔の見える互助にするためにも、この機会に
地域の伝道のために分区や地域の教会が積極的に協力できるようにしたいのです。そのためには、一つのキリストの体としての一体感が何よりも大切になります。福音理解と教会観の一致が必要です。
先日、篠ノ井教会の畑で、春に旧四役で植えたジャガ芋を、沢山の助っ人を得て新四役で収穫しました。先に篠ノ井教会から提供されたタマネギと共に、売り上げが互助のために用いられます。各教会で、美味しいカレーを食べながら、互助が覚えられます。ささやかな協力伝道の種蒔きです。
(東海教区総会議長)
2009年7月19日(日)午後2時半~5時、埼玉県大宮教会において、埼玉地区壮年部の修養会が行われ、信徒・教職70名が参加した。
第1部開会礼拝、疋田國磨呂牧師による説教「すべての民をわたしの弟子にしなさい」に続き、第2部修養会は、「教団50年データ」の上映から始まった。
映像に映し出されたグラフによる教団の姿は深刻なものがあるが、疋田関東教区議長は、今年大きく変化した教区の数字を挙げながら以下のように語った。
従来、関東教区は17教区のうちでも、それ程悪い方ではなく現状維持か、変動率が極めて小さい教区であった。それが、今年の教区総会でびっくりする数字が現れた。つまり、この一年間で教区の数字が落ちてしまった。経常収入2150万円減、現住陪餐会員289名減、礼拝出席64名減、祈祷会出席47名減、受洗者45名減。これは、教区全体で中堅教会の一つが消えていく状況が、私たちの中にあるということを示している。私たちはどうやって踏ん張ったらよいのか。
映像の提言「教会に帰ろう」。別帳会員の掘り起こし。沢山の卒業生を出している教会学校の卒業生。そういう人たちが、中年、壮年期になって、どうやって帰ってくることが出来るか。帰ってくる人たちが、帰り易い教会、ウエルカムと受け入れ態勢が出来ているかどうか、帰ってきた時に、心からお互い赦しあって、主を誉め讃えることの出来る礼拝を、私たちは捧げていることが出来ているかどうか。帰ってくるための受け入れ態勢を私たちは、今、考えていかなければならない。また、全く新しい、求道者の方々が教会に来た時に、私は、歓迎されている、私は、この教会に留まろう、ここで求め続けようという雰囲気になる教会に整えることが必要ではないか。
一方、教職者たちに問われることは、本当に、御言葉が活きて信徒一人ひとりの心に届くようなメッセージが出来ているか。私たちは、主の言葉を聴け、枯れた骨が、希望を失った者たちが、御言葉を聴いて、そこに希望を見出し、また、立ち上がることが出来るようなメッセージを教職者たちがするということが、大切な事柄だと思う。そのために、信徒の皆さんが、教職者たちのために祈っていただく、ということも大切なことである。
示唆に富んだ総括によって、参加者の議論を誘い出した。
(鈴木功男報)
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