インスタグラムアイコンツイッターアイコンyoutubeアイコンメールアイコン
日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
calendar

マルコによる福音書2・13~17

2024年11月4日

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

2024年11月3日
イスラエルの王である主
イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。
わたしは初めであり、終わりである。
わたしをおいて神はない。
だれか、わたしに並ぶ者がいるなら
声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。
わたしがとこしえの民としるしを定めた日から
来るべきことにいたるまでを告げてみよ。
恐れるな、おびえるな。
既にわたしはあなたに聞かせ
告げてきたではないか。
あなたたちはわたしの証人ではないか。
わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。
わたしはそれを知らない。
無力な偶像
偶像を形づくる者は皆、無力で
彼らが慕うものも役に立たない。
彼ら自身が証人だ。
見ることも、知ることもなく、恥を受ける。
無力な神を造り
役に立たない偶像を鋳る者はすべて
その仲間と共に恥を受ける。
職人も皆、人間にすぎず
皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。
鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。
槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが
飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。
木工は寸法を計り、石筆で図を描き
のみで削り、コンパスで図を描き
人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り
神殿に置く。
彼は林の中で力を尽くし
樅を切り、柏や樫の木を選び
また、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。
木は薪になるもの。
人はその一部を取って体を温め
一部を燃やしてパンを焼き
その木で神を造ってそれにひれ伏し
木像に仕立ててそれを拝むのか。
また、木材の半分を燃やして火にし
肉を食べようとしてその半分の上であぶり
食べ飽きて身が温まると
「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。
残りの木で神を、自分のための偶像を造り
ひれ伏して拝み、祈って言う。
「お救いください、あなたはわたしの神」と。
2024年11月2日

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

2024年11月1日

「沈む者に伸びる御手」

聖書箇所:「 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

マタイによる福音書14章22~33節


神奈川教会
兼清啓司 牧師

 皆さんこんにちは。11月のメッセージを担当します、神奈川教会の兼清と申します。神奈川幼稚園の園長もしております。マタイによる福音書142233節までを読みながら神様からのメッセージを受け取りたいと思います。
 今日の聖書に依りますと、イエス様は弟子たちだけを船に乗せ、ガリラヤ湖の反対側に行くように言われた、とあります。いつもは凪が多いガリラヤ湖も、そのときは向かい風が吹いて弟子たちは「悩まされた」とあります。事実上の航行不能を意味します。向かい風によって悩まされた、というマタイの表現は大変示唆的です。わたしたちもまた強い逆風にさらされ、もう前に進めない、という経験をするからです。しかも夕方から夜にかけてであり、彼らはほとんど明かりがないところで、一晩中漂流するしかありませんでした。そんなときわたしたちはどうすればいいのでしょうか。どうすることもできないのです。しかしこのどうすることもできなくなってしまった者のところへ、キリストは静かに接近される、というのが今日のお話です。
 夜が明けるころになって、湖の上を、主イエスが弟子たちのところへ歩いて近づかれました。ところが弟子たちはイエス様だと気づかず、思わず幽霊だ、と恐怖の叫び声をあげたようです。人はピンチに陥ったとき、見なければいけないものを見ず、見なくてもいいものを見てしまう、ということではないでしょうか。私たちは目に見えるもののなかから、自分を救ってくれるものを見つけようとしますが、それは虚しいことです。福音というのは、思わぬところから、それまで見えていなかったところからやってきます。逆風に悩む私たち、暗闇に閉じ込められた私たちに静かに接近しておられるイエス様に気が付きたいのです。
 弟子たちに対して、主は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」といわれました。この御声は、パニックになっていた弟子たちにもはっきりと聞こえたようです。目では主イエスを確認できなかった弟子たちですが、耳においては主を認識できました。大きな混乱の中にあっては、視覚よりも、聴覚の方が正しく導くこともあるのです。そして私たちにとってそれは、キリストの御声以外にありません。
 聖書の中にガリラヤ湖の話はたくさん出てくるのですが、一部は魚が一杯取れた、みたいな話もありますが、どちらかというと、今日のように嵐や風で船が沈みそうになる、という話のほうが多いです。その意味では、聖書の世界では、ガリラヤ湖は死と滅びにつながる場所であり、死を象徴している、ともいえます。その「死の水」の上をキリストが歩かれた、ということは、まさにキリストが死と滅びを超克なさる方である、というメッセージを含んでいます。
 「安心しなさい」というキリストの御声に反応したのはペトロでした。彼は「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」といっています。大変おかしなことをいっています。人間が水の上を歩けるはずがないからです。しかしペトロはこのとき「水の上を歩けるかもしれない」と本気で思いました。そして実際に彼は水の上を歩きました。落ちれば確実に死が待っている水の上をペトロが歩いたのです。この出来事が意味していますのは、キリストを救い主と信じるものは、主とともに、死の上を歩くことができる、ということです。その者は、死を超克なさるキリストとともに復活の命を生きるのです。
 今日の状況を考えるならば、暗闇と死が満ちている世界の中で、キリストがおられる場所だけが「救いの特異点」である、と表現できます。これはまさに、この世の現実とキリストとの関係を示しているのではないでしょうか。救いなき世界に生きる私たちにとって、キリストのおられる所だけが救いです。そのことにペトロは気が付いたのです。
 ペトロはおそらく忘我状態で水の上を歩いていたと思いますが、途中で「強い風に気がついて怖くなり」沈みかけた、とあります。その時、ペトロの腕をイエス様はしっかりと掴まれ「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とお叱りになりました。確かにそうです。ペトロは信仰が弱かったです。しかしイエス様は腕を決してお放しにはなりませんでした。信仰の弱いペトロが罪の中に、死の中に沈み込んでいくことを、主はお許しになりませんでした。その腕を掴んだまま死から命の側へと引き上げられたのです。
 私たちもキリストを信じていても、いろんな風が吹いてきて、気が付けば信仰が弱まり、この世の現実に埋没していってしまうことがあるのではないでしょうか。
 しかしキリストはそれをお許しにならない。沈む者の腕をキリストは強く握られ決して離されないのです。私たちは主を信じきれない弱さがあるのに、決して不信仰や死や暗黒の中に沈まないのです。
 今日の物語はイエス様が水の上を歩かれる、という奇蹟物語ですが、もう一つの奇蹟はペトロが沈まなかった、ということではないでしょうか。私たちはこのもう一つの奇蹟に生かされているのです。いかなる嵐の中であっても尊い主の御腕は私たちに伸び、滅びから救い上げられているのです。このことを信じましょう。

 祈ります。主なる神様、わたしたちが困難の中にあるとき、どうか主のみ声を聞き分ける力を与えてください。暗闇の中にあるとき、この世のものではなく、キリストのみを見続ける力を与えてください。いついかなるときも、しっかりと主の向かって歩みゆく者としてください。主の御名によって祈ります。

 

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

PageTOP
日本基督教団 
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2026
The United Church of Christ in Japan