教団教誨師会会長に就任
深山祐さんは1985年、91歳で教誨師を退いた父の故佐太郎牧師の後を受けて、府中刑務所の教誨師に就任した。
以来教誨師25年間、今や父親の教誨師20年を上回り、近年、立川拘置所の教誨師も務めている。
府中刑務所は、受刑者3、000人と受刑者数では日本最大の刑務所だが、近年、目立つのは、「高齢化と再犯者の多いこと」だという。「再犯者が多いのは、教誨の力が足りないのではないかと、いろいろ考えさせられる」と深山さんはいうが、月1・2回、1回45分ほどの教誨では、時間的制約があるだけでなく、集合教誨、個人教誨とあって、1対1で話せる時間は限られている。
「出所後に、どこの教会でもいいから、教会を訪ねて下さい」と深山さんは、教誨で語りかけているが、それを覚えていて教会を訪ねてくれた人が、「聖書が欲しい」と申し訳なさそうに話しかけて来たことがある。刑務所にいる間に、新約聖書すべてを筆写した人もいたそうだ。
深山さんと話していると、父親の薫陶がいかに大きかったかが分かる。教師をしながら日本聖書神学校に学び、東神大大学院を卒業した。父親が開拓伝道した国分寺南教会で、夫人の正子牧師と共に、亜細亜大学で教鞭を執りながら牧会している。
教団の教誨師は、教誨師のいない北海、沖縄を除き15教区で98人。1、800人を数える教誨師全体では、圧倒的に仏教系が多く、キリスト教教誨師は1割強にしか過ぎない。他宗教との関係の中で、教誨師の位置付けを明確化する必要が生じて、40年間続いた教誨事業協力会を発展的解消し、本年6月、日本基督教団教誨師会を設立。深山さんが初代会長に選出された。
深山さんは、「教誨師が活動出来るのは、諸教会のお祈りとお支えがあるからで、本当に感謝している。教団の組織の中で、教誨師の位置付けを願っている」と語っている。
メアリー・イザベラ・ランバス(1832~1904)の名を冠して
小見のぞみ
(学校法人関西学院 聖和短期大学・宗教主事)
わたしが聖和大学のキリスト教教育学科の学生だったころ、 聖和(Holy Union)の源流となる3つの学校の創設について聞いた中で、特に印象深い話がありました。創立者の一人であるメアリー・イザベラ・ランバスが、10代の若い日に、中国宣教へのアピールがなされた集会で”わたしは、この5ドルとわたし自身を献げます”と語ったという話です。
この一途で情熱的な言葉は、120年以上経ってそれを聞いた学生であるわたしだけでなく、語られた当時、同じく中国への伝道を志していたジェームズ・ウィリアム・ランバスの心を強くうったのでしょう。彼は、それを語った女性、メアリー・イザベラ・マックリーレンとめぐり合い、1853年10月に結婚。南メソジスト教会の宣教師として翌年5月にニューヨークを出航し、4ヶ月の船旅の末9月18日に中国に到着します。そのわずか2ヵ月後、11月10日に上海で、後に関西学院の創立者となる長男ウォルター・ラッセルが誕生します。
21歳の若いメアリーにとって、初めての赤ちゃんをお腹に宿しての長い船旅、そしてはじめての異国、中国での出産は並大抵のことではなかったと想像します。その頃ジェームズは、月のうち2週間は船に乗り、中国人と生活を共にして伝道の旅をしていたといいます。メアリーは、異郷にあって乳飲み子を抱えて家を守り、その間に女性や子どもたちをあつめて仕事を教え、伝道し、世話をしました。そして彼女は米国の友人へこのように書き送っているのです。「一月ほど前に、わたしたちの心と手の中に、可愛い男の子を与えられました。とてもかわいくて、わたしたちは神様への感謝の心に満ちています。この子が立派に成長してイエスに従う忠実な僕になることが出来るよう心から祈っています」。ここには、彼女自身とそこから生まれた命、それらはすべて与えられたものであり、イエスに従うために喜んで献げたものであるという強い信仰が表されています。そしてこの信仰とイエスへの従順は、メアリーの生涯一貫して変わらないものでした。
その後も、数度、米国と中国を行き来し、幼い子どもたちを一時米国に預けたり、6歳の娘を猩紅熱で亡くすという経験をしながらも、彼女は中国伝道にすべてを献げていきます。しかしウォルターが14歳になった1876年、メアリーは外国伝道局に不思議な言葉を送ります。「日本はわたしたちの行くべき所のように思います。時々日本は、ウォルターにとってよい働き場所だろうと思います<略>『万事は適時に適所で』というのがよい標語で、これを私は忘れたくないと思います」。まだ何の計画も到底考えられないときに、静かに抱かれた幻であり、信仰深い母の愛の洞察だったのかもしれません。
それから約十年がたち、実に32年間の中国での医療伝道を含めた宣教を突如辞任し、中国語も堪能だった2人(メアリー53歳、ジェームズ56歳)はそれらを捨てて日本に向かい、1885年7月29日に神戸に到着します。3ヶ月遅れてウォルターが着き、2日後には後のパルモア学院や啓明女学院のルーツともなる、読書館を開室し、家族あげての神戸での宣教が始まります。
1887年、メアリーは神戸居留地から神戸市内山二番(現在の中山手)に転居し、自宅の1階応接間で若い女性たちのための家庭塾を開き、編み物や英語、西洋料理、聖書を教え始めるほか、広島女学校のゲーンズを応援するため広島に向かうなど、精力的に西日本での宣教に取り組みます。そのころ神戸に生まれたメソジスト諸学校の萌芽の存廃が取りざたされた時、メアリーの言葉で廃止が回避されたというエピソードも残されています。1888年、メアリーの神戸の教室は、岡島初音(後に吉岡美国の妻となる)を補助者として与えられ、本国伝道局に認められて、神戸女子学校(神戸婦人伝道学校)、後にランバス記念伝道女学校と呼ばれることとなります。メアリーは、その後1892年、夫ジェームズを神戸で亡くし、米国へいったん帰国しますが、娘ノラ夫妻が宣教を続ける中国へ再度渡り、最後は中国蘇州にて71歳で召天、上海に葬られたのでした。
メアリーの日本での活動は、わずか7年、メソジスト教会の日本宣教監督ウォルターと病弱だったその妻デイジー一家を支え、孫たちの世話をしながらのものでした。しかし、1921年に広島女学校保母師範科と神戸のランバス記念伝道女学校が合併して、保育者と女性伝道者の養成のために大阪に敷地千坪の立派な学校が建てられた時、新聞(*)はこの学院がそのときはもうすでにこの世になかったメアリーの名前を冠して、「ランバス女学院」と命名されたことを伝えています。
*(原文のまま)「もともと同院は明治20年の頃アメリカ南メソジスト教会がわが国の伝道を開始するにあたってゼー・ダブリユー・ランバス夫人が派遣されて爾来同夫人は、赤子片手に聖書を持ち、キリスト教義の宣伝ならびに教養に努めた人で該院の今日あらしめたのもまったく同夫人に負うところが多いというところから、その表彰の意味でランバスの名を特に冠したものであるそうな」
こうしてメアリーの名前(ランバス)をつけた学校は、後に聖和女子学院、聖和大学へと発展し、昨2009年4月にはウォルターの建てた関西学院と合併して、保育者と教員養成の場として、これからも歩いていくことになりました。メアリーの信仰と決意、若い日のあの献身が結んだ実の、今日の姿だと思います。ヨシュアが決然と語った、「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」(ヨシュア24:15)の言葉が彼女の声として聞こえてくるようです。その名を冠した歴史を受け継いで、歩んでいけるようにと願っています。
-Kyodan
Newsletterより-
4704・5号(8月14日発行)3面「第5回宣教委員会報告」記事中、3段目4行「その中で」から10行目までを以下のように訂正してお詫びいたします。
そこで、前担当職員で今は同宗連の事務局長に出向している職員にお願いしたが、どうしても時間がなくて進められないというので、幹事会で相談して、今アルバイトの方にテープ起こしをしてもらうという方向で進めている。
今井 晋氏(隠退教師)
10年4月5日、逝去。87歳。京都府に生まれる。’48年京都大学を卒業、’57年准允、同年西陣教会に赴任、00年まで同教会を牧会し03年隠退した。遺族は、妻・今井美令さん。
稲垣徳子氏(隠退教師)
10年4月21日、逝去。100歳。東京都に生まれる。’35年日本神学校、’37年オーバン神学校を卒業、’39年芝教会に赴任、西荻窪教会を代務し、01年まで芝教会を牧会し、同年隠退した。遺族は、姪・大石洋子さん。
野呂芳男氏(無任所教師)
10年4月26日、逝去。84歳。東京都に生まれる。日本基督教神学専門学校、ユニオン神学校を卒業、’48年代々木山谷教会に赴任、’57年より’72年まで青山学院神学部に務めた。遺族は、妻・林昌子牧師。
渡辺玲子氏(無任所教師)
10年6月5日、逝去。76歳。愛知県に生まれる。’57年同志社大学神学部を卒業、’59年より’68年まで、守山教会を牧会した。遺族は夫・渡辺泉牧師。
高尾 哲氏(松山古町教会牧師)
10年6月12日、逝去。77歳。宮崎県に生まれる。’57年同志社大学大学院神学部を卒業、同年福岡玉川教会に赴任、’69年より松山東雲学園勤務、04年より松山古町教会を牧会し た。遺族は妻・高尾久子さん。
飯渕よし氏(隠退教師)
10年6月16日、逝去。94歳。宮城県に生まれる。’45年女子神学専門学校を卒業、男鹿教会に赴任、 ’70年に脇本伝道所を開設、’87年まで脇本教会を牧会し、隠退した。
田中紀子氏(無任所教師)
10年6月28日、逝去。56歳。大阪府に生まれる。’76年同志社大学文学部を卒業、00年准允、同年より10年まで同志社教会を牧会し、6月退任した。遺族は、弟・田中俊也さん。
遠藤 彰氏(無任所教師)
09年7月11日、逝去。89歳。福島県に生まれる。’42年同志社大学神学部を卒業、’45年洛陽教会に赴任、’54年より’90年まで同志社大学神学部に務め、錦林教会を牧会し、’90年より’97年まで広島女学院に務めた。遺族は、息・遠藤浩さん。
髙田勝代氏(隠退教師)
10年7月18日、逝去。101歳。岡山県に生まれる。’32年ランバス女学院神学部を卒業、同年国東教会に赴任、城津教会(樺太)、羅南教会(朝鮮)、舞鶴五條教会、岩国教会を経て、’55年より’93年まで宮島口教会を牧会し、隠退した。
岡田仁一氏(無任所教師)
08年1月27日、逝去。81歳。静岡県に生まれる。東京大学、昭和薬科大学を卒業後、日本基督教団の教師検定試験に合格し、’87年宇佐教会に赴任、’93年より’95年まで都城城南教会を牧会した。遺族は、友人・大田辰夫牧師(松山栄光教会)。
大舘義夫氏(隠退教師)
09年10月8日、逝去。85歳。東京都に生まれる。’78年東京聖書神学校を卒業、同年代々木教会に赴任、’79年から’92年まで城辺教会を牧会し、隠退した。遺族は、妻・大舘信子さん。
相良哲生氏(無任所教師)
10年8月12日、逝去。80歳。福岡県に生まれる。02年東京聖書学校を卒業、同年菖蒲教会に赴任し、06年まで牧会した。遺族は妻・相良佳子さん。
大井上稔氏(隠退教師)
10年8月13日、逝去。78歳。宮崎県に生まれる。’58年東京神学大学大学院を卒業、同年豊橋中部教会に赴任、鷹巣教会を経て、’72年より’98年まで宮崎中部教会を牧会し、隠退した。遺族は妻・大井上枝美子さん。
第36総会期第5回世界宣教委員会が7月9日、教団会議室で開かれた。
多くの派遣宣教師や訪問者、関連委員会の報告を承認。特に、今回、村山盛芳委員長と加藤誠幹事とがアメリカに派遣している宣教師を訪問したこと、また、任期を終えて帰国された南吉衛宣教師の、帰国報告を聞くことに多くの関心と時間を割いた。
アメリカ訪問は、6月13日~23日、ロサンゼルスやサンノゼ、サンフランシスコの宮川裕美子、西之園路子、佐原光児各宣教師とそれぞれの教会訪問のほか、サクラメントで開かれた合同メソジスト教会カリフォルニア・ネバダ部会の年会にも出席。また6月18日より、ニューヨークに移って相良昌彦、小海光各宣教師の働きを聞き、アメリカ改革教会のニューヨーク教区事務所、合同メソジスト教会の海外宣教局訪問も行った。
多忙なスケジュールであったが、それぞれの宣教師が置かれている状況を実際に見、また直接に宣教師や教会の信徒の話を聞くことができ有益であったこと、また、このような問安の機会を派遣宣教師が強く求めており大いに喜ばれたこと、厳しい状況に置かれているところが多いことを実感できたことなどが報告された。
なお、加藤幹事はアメリカ訪問に先立って、6月7~12日ドイツのケルン・ボン日本語キリスト教会の林原泰樹宣教師と教会員とを訪問し、EMS宣教会議にも出席するというハードスケジュールであった。
16に及ぶ協議事項のうち、以下に4つを挙げたい。
1.南吉衛宣教師の西南ドイツ宣教局エキュメニカル開発途上国援助部門での働きを3月31日をもって辞任することを感謝と共に承認。
2.カナダ・フレーザーバレー日系人教会は、人数の減少と財政難により6月をもって教会活動を終えることが伝えられていたが、カナダ合同教会の国内伝道基金の助成を受けて、日本語礼拝に加えて他の移民の国際結婚家族への奉仕活動やアジア系・アフリカ系移民の人々とのかかわりと交わりを深める働きなどにも手を広げることになり、働きが継続されることになった。木原葉子宣教師の任期延長の申請をするよう求めることとした。
3.在外宣教師より届けられている年度報告書を読み、これに対して各委員が分担して感謝と慰労の返書を書くことにし、担当を決めた。
4.第2回退任宣教師感謝ツアーはカナダからの強い希望もあり、実施することを次期委員会に申し送る。また、その実施にあたって、現地の元宣教師、三井義牧師と連絡しつつ、旅行社に実務を担当させることとした。
(秋山徹報)
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