ルカによる福音書12章49~53節
血肉の絆を超える絆がある 岡本知之
火 と 洗 礼
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と主は言われる。キリストの到来を平和の到来と考えたいわれわれを、この言葉は十分に狼狽させる。さて、ここに言われる火とは一体何のことか。
この言葉の直後に「その火が燃えていたら」と言うのであるから、イエスが来られたとき、この燃えていてほしいと願った火は燃えていなかったことになる。だから、主イエスは洗礼を受けなければならないと言う。この「洗礼」が何を指すかについては色々議論があるのであるが、私としては大方の理解と同じく、これが主の十字架を指すことはほぼ間違いのないところであると思う。
とすれば、イエスが燃えていてほしいと願った火とは、主の十字架によってのみ担われ得るところの、人々の罪を清めるための火であったと言えるのではあるまいか。主の十字架が、この火の役割を果たすことになるのである。いかなる意味においてか。血肉の運命共同体たる「家族」に、「分裂をもたらす」ことにおいてである。
宗教か信仰か
唐突なようであるが、私たちは「宗教者」ではない。「キリスト者」である。「宗教」は概念であるが「キリスト」は人格である。
「概念」は操作の対象であるが「人格」は出会いの対象である。
そして、この主キリストとの出会いを、われわれは「信仰」と呼ぶのである。ここで「信仰」とは、そのギリシャ語の原意のとおり、人格と人格との出会いにおける真実そのものに他ならない。
つまり、今日流行の「宗教多元主義」という概念は、その本質において、この「信仰」とは全く関係のない概念なのである。この両者を置換可能な事象であると考えるのは、完全なカテゴリー・エラーであり、キリスト信仰を宗教と同義とすることは、直ちに信仰の捨象を意味するのである。とすれば、信仰を宗教と同義と思い込んだ教会に残されるのは人間主体の宗教集団のみであろう。
今日の神学的状況における最大の問題は、ここに述べた「信仰と宗教の混同」と言うことであり、言葉を換えて言えば「神学の宗教学化と信仰の宗教化」と言うことである。
人類皆兄弟、諸宗教皆同じという発想は、実は人間中心主義に基づく血肉的結合の裏返しに過ぎないことを、われわれは知らねばならない。
キリストの到来の結果としての分裂
イエスと出会い、このイエスをキリストと知り、告白すること。そこから、家族内の分裂が始まると主は言われた。つまり「イエスとは誰か」、その判断を巡って運命共同体である筈の「家族」が、分裂しかつ対立する。
しかし、考えてみればこれは当然のことであり、全く以て意外なことではない。イエスをキリストと言うか、それとも唯の人と言うか、「家族」という血肉の共同体であろうとも、この理解が違えば、そこに「命の共有」はない。なぜならイエスをキリストとする主への信託(信仰=ピスティス)は、自己の人格的真実をかけた決断であるからである。主の言葉は、その清明な事実を摘示しているのである。
代々の教会は、主が十字架の上で息絶えられたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことを、正しく「宗教の終焉」と理解し、主の復活を「新しい命の関係の始まり」と、これもまた正しく理解してきたのではなかったか。
ここで信仰とは、私たちの主キリストに対する一方的な信託のみを意味する言葉ではなく、主キリストの、私たちに対する十字架の贖いの死と復活における真実に根拠を持つところの、救いの出来事なのである。
違いを超えうるもの
しかし以上のことは、決してわれわれを絶望させるために語られた言葉ではない。子から親への家庭内暴力や、親から子への虐待、さらには夫婦間の殺し合いの頻発は、今日における家族の血肉的結合の限界とその破綻を、われわれに突きつけるものであろう。
その現実の中に、主は血肉の絆を超える絆があることを提示されるのである。十字架に死に、人に命を与えるために、苦しみの洗礼を主は受け給うた。まさに「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられた」(コロサイ1・19~20)のである。
主が地に投げ入れられる火によって、人間中心主義を滅ぼされ、キリストの十字架によって、神との和解に招かれた者がその恵みに応えるとき、人と人とを結ぶ真の絆が結び合わされ、「地に平和が、御心に適う人に」(ルカ2・14)与えられるのである。
(西宮教会牧師、教団総会副議長)
The item that took up the most time in the meeting was agenda item 22: the “establishment of a study commission on evangelism policy.” This item was number 37 at the 2010 General Assembly, and it had been delegated to the Executive Council for further deliberation. The originator of the proposal, council member Suzuki Isao explained, “In the midst of this protracted decline in membership, we need to establish a study commission on evangelism policy to look into the issue of evangelism within the Kyodan and make specific proposals on implementation.” During the ensuing discussion, council member Kobayashi Sadao asked that all members give their input, and as this was agreed to by the council, a great deal of time was spent in the process. The discussion proceeded beyond a simple vote on the establishment of such a commission and was expanded to a wider perspective, calling for a “vision of evangelism.” Everybody chimed in on the topic, including all of the district moderators in attendance and the chairpersons of the various committees who were there at the request of the Executive Council. In contrast to usual procedures, no time limit was set so a wide variety of opinions was expressed from the unique standpoints of the various churches that were represented. Nevertheless, practically everyone was in agreement that urgent measures need to be taken to strengthen evangelism. The result was a unanimous vote to establish the “study commission on evangelism policy.”
The last agenda item to be addressed was one submitted by the moderator on the establishment of an emergency fund. Up until now, whenever there has been a major natural disaster, funds for relief response have been collected at that time. Thus, the rationale for setting up such an ongoing fund is that in this age when such disasters have been frequent, the Kyodan needs to be able to respond quickly when the need arises. The 60 million yen remaining from the funds raised for relief after the 1995 Hanshin-Awaji earthquake as well as what remains of the Kanto District fund for the 2007 Niigata-Chuetsu earthquake would become the foundation of the fund. After discussion, it was passed by a majority vote.
This first Executive Council meeting was noteworthy in several ways. First of all, there was no heckling at all from any of the observers–something that probably has not happened for several decades. Likewise, there were no participating observers there at their own request, and so the meeting was conducted entirely in accordance with the bylaws. But most of all, the majority of the two-day conference was dedicated to the discussions surrounding evangelism. No doubt, the true value of that will be a topic of discussion for some time. (Tr. TB)
第37総会期第一回常議員会が、12月20,21日、教団会議室で開催された。会議の冒頭、石橋秀雄議長は第37回教団総会を「伝道する教団への変革を共有したのが 第37総会」と総括し、「教団に伝道200年はあるのかという危機感を持たざるを得ない。伝道 に熱くなる教団をめざしたい」との所信を表明した。常議員会の具体的運営については「教憲・教規に則った運営を貫きたい。これまで慣例で あった要求陪席は教規にはないので、今後は傍聴として扱う」との方針が示された。
議事の中で最も多くの時間を割いたのは、議案第22号「伝道方策検討委員会を設置する件」であった。こ の議案は第37回教団総会議案37号であったが、常議員会への委託となった議案である。提案者は鈴木巧男常議員で、「教勢の長期低迷傾向にある中 で、日本基督教団として伝道について検討し、当面の具体的な方策を提言するために伝道方策検討委員会を設置する」との内容説明がなされ た。審議に入ると、小林貞夫常議員が「全常議員の発言を求める」と提案、これが議場に承認され、ここから多くの時間を費やして、新委員会 設置の是非に留まらず、むしろもっと大きい視野での「伝道についてのビジョン」が語られた。発言は常議員のみならず、出席の全教区議長、 要請陪席の諸委員会委員長が、いつもとは違い時間的制約なくして伝道への思いを語った。当然のことながら、それぞれの教会が置かれた状 況・立場などの違いから多様な意見が述べられた。しかし、伝道への情熱、何らかの緊急な手当てが必要だということでは、陪席も含めてほぼ 全員の意見が一致していた。結果、「伝道方策検討委員会を設置する件」は全員の賛成で可決された。
最後の議案は、議長提案による議案第23号「緊急対策基金設置に関する件」であった。
こ れまでは大規模自然災害に対し、その都度支援金を募ってきたが、災害の頻発する中で教団として速やかに支援体制を作る必要が求められてい ることが主な提案理由である。ベースとなる基金は「阪神・淡路大震災救援資金」の内、その役割を終えたものの内からの6000万円と、関東教区からの「新潟中越沖地震救援募金」の残金を当てるとの説明がなされた。議論の後採決がなされ、賛 成多数により可決された。
第一回常議員会は、何重もの意味で画期的であった。先ず、陪席・傍聴者の野次が全くなかった。数十年ぶりのことであろう。次に要求陪席を なくし、教規に則った会議を行なった。何よりも二日間の会議の大半を「伝道そのもの」の議論に充てた。今後、その真価が問われるであろう が。(加藤誠)
2011年8月7日に創立60周年を迎えた日本盲人キリスト教伝道協議会(略称:盲伝)の記念礼拝・感謝会が、11月29日午後2時から、戸山サンライズ(全国身体障害者総合福祉センター)において行われた。100名近い出席者が与えられた。
第一部・礼拝では、大村栄牧師(日本基督教団阿佐ヶ谷教会)が、ルカによる福音書13章1~9節から、「わすれない」という題で説教した。
大村牧師の父、大村善永牧師は1975年から4年間、盲伝の議長を務めた。その父に連れられて、子供のころ盲伝の集会、修養会などにも参加していたこと、会場に懐かしい顔をみることができて嬉しく思う、と、盲伝との深い関わりが明らかにされた。そして、話を進める中で、最近夫を亡くした、教会のある夫人の言葉が紹介された。「わたしは未亡人(夫は死んだのに未だに死なない人)ではなく、未忘人(未だ夫のことを忘れない人)でありたい」。
そこから、先に召された人たちのことを忘れない。60年の盲伝の歴史を忘れないで次へ伝えていく。さらに、東日本大震災で亡くなった人々の死の意味を心に刻んで忘れない。それが残された者たちの責任であると思うと、大村牧師は述べた。
聖書箇所から、災害・事故で死んだ人々が、「ほかのどの人々よりも罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」との、2回繰り返される主イエスの言葉を取り上げて、次のように語った。
神を忘れた人類全体がこの出来事の前に、悔い改めをもって、あらためて自らを振り返らなければならないと思う。
後半のたとえ話に登場する園丁に、主イエス・キリストのお姿が示されている。私たちのために必死に神に執り成しをしてくださるお姿である。それだけでなく、主イエスは私たちを贖う死を遂げてくださった。このキリストによって与えられている、赦されて生きる希望を忘れてはならない。盲伝の歩みに貢献した人々のことを忘れないことは大切だが、まず、この神の恵みを忘れない者たちでありたいと、大村牧師は結んだ。
第2部の感謝会は、盲伝10周年のときに、高木正治郎氏が作詞し、鳥居忠五郎氏が作曲した「盲人伝道の歌」で始まった。
盲伝議長挨拶において、日高馨輔議長は、決して平坦な道ではなかった60年の歩みの中、これまで支援及び協力をしてもらったすべての人々に対して謝意を表した。そして、この60年の歴史に立ち、より新しい盲伝を志向しつつもイエス・キリストに従い、さらに歩みを進めていく決意であると述べた。
次に、来賓挨拶が続いた。要旨は次のとおり。
点字聖書の出版と普及を、聖書協会と盲伝が協力して進めてきた。点字聖書は通常の聖書発行の約30倍の製作費がかかるにもかかわらず、すべて一冊100円で頒布している。この価格の差をなくすために、聖書協会募金部は、全国に点字聖書製作支援献金を呼びかけ、毎年温かい支援が全国各地から寄せられている。(菊地義弘氏)
盲人の方々を誘導する手引きのボランティアを組織する働きを任されたことがある。その過程で、実は助けているつもりが、実は助けられていたという体験をし、晴眼者がとうてい及ばない鋭い感覚をもつ盲人の人たちから多くのことを教えていただいた。(有澤年氏)
視覚障がいと、女性であることとが重なることは、開発途上国では、想像を絶する過酷な状況をもたらす。しかし、それにもかかわらず、inclusive教育という世界の潮流の中で、その状況が見落とされている。その中で、盲伝が、アジアへ活動の輪を広げ、特にバングラデシュにおいて、視覚障がいをもつ女性たちの自立への支援活動が、並々ならない困難の中、粘り強く続けられていることに対して、心からの尊敬と声援を送りたい。(中澤惠江氏)
千年に一度の苦しみを与えることを、神様はどうしてお許しになったのだろうと考えているうちに、苦しみを与えたのだから、神様は次に千年に一度の祝福をくださるに違いないと思うようになった。それは具体的には何かというと、魂が渇き、人間性を欠いているこの現代の日本に、愛されている喜びが満たされることである。そのためにはまず、障がいを負っている人々が、主イエス・キリストの福音に満たされて喜びにあふれなければならない。しかし、教会には今そのための霊的エネルギーが不足している。神様が盲伝を豊かに用いて、これから先日本のキリスト教会を、日本を、再生する霊的エネルギーを生まれさせてくださることを願っている。(大塚野百合氏)
さらに、祝電・祝辞披露、出席者全員による自己紹介があり、多くの思い出と共に、盲伝への感謝と期待が述べられた。その中で、大村栄牧師のように、親が盲伝に関わる中で、自らも関わりを持つようになった盲伝2世という言葉が数人から聞かれた。今後も盲伝の歩みが続くことを期待させる神様の恵みであろう。
(秋葉恭子報)
◎ 日本盲人キリスト教伝道協議会(盲伝)とは
盲伝は、視覚障害の有無に関わらず、信徒が手をたずさえ、キリスト教各派が協力して生まれた超教派の総合的な視覚障害者伝道団体である。1948年、ヘレン・ケラー女史が総裁を務めていたアメリカの視覚障害者伝道団体ジョン・ミルトン協会の支援によって、1951年8月に、日本盲人伝道協議会が生まれた。
1978年に同協会からの支援は終了し、その後は自立の道を歩んでいる。創立以来、教派を超えて、多くの人々に支えられ、さまざまな使命と役割とを神様から与えられて、活動を続けている。
(盲伝パンフレットから抜粋)
(1)誕生年
(2)出身地
(3)受洗(年、教会、牧師)
(4)趣味
(5)愛唱聖句(聖書箇所)・讃美歌
(6)抱負
◎順不同
江本義一 大阪教区・茨木東教会
(1)1935年
(2)山口県岩国市
(3)1960年・新居浜西部教会・藤川武治牧師
(4)散歩。毎日ではないが、かなり遠くまで3~4時間かけて散歩する。健康のためでもあるが色々なことを考えたり、風景を楽しんだりする。
(5)ローマの信徒への手紙13章12節
21・57番
(6)教団の教勢低下は目を覆うばかりである。教団の問題は山積みしているが改善は遅々として進まない。何とかしなければならないと思っている。
鈴木功男 東京教区・目白教会
(1)1934年
(2)名古屋
(3)1961年・目白教会・篠原金蔵牧師
(4)山歩き、音楽、企画癖
(5)テサロニケの信徒への手紙一5章16?18節
Ⅰ編453番
(6)一致して伝道・熱い教団。
望月克仁 神奈川教区・鎌倉雪ノ下教会
(1)1932年
(2)東京
(3)1961年・鎌倉雪ノ下教会・松尾造酒蔵牧師
(4)スキー、テニス
(5)ローマの信徒への手紙10章17節、ガラテヤの信徒への手紙6章2~5節
(6)【讃美歌第二編1番】を心としたい。
岡田義信 東京教区田園調布教会
(1)1939年11月20日
(2)東京都
(3)田園調布教会・1941年幼児洗礼・1953年信仰告白・岡田五作牧師
(4)過去:テニス・ゴルフ、現在:事業
(5)コリントの信徒への手紙13章13節
Ⅰ編331番、338番(1955年版)
(6)全国の教会・伝道所における福音伝道の業が前進するために、信仰告白と教憲・教規において教団が一致することに努力を注ぎたい。
松尾亨 奥羽教区・青森松原教会
(1)1937年
(2)青森県青森市
(3)1956年・秋田一番町教会(現秋田高陽教会)・塩谷嘉綱牧師
(4)書道・音楽(バッハ、モーツァルト)
(5)コリントの信徒への手紙一6章20節
21・377番
(6)教団の各教会・伝道所が更に伝道する教会になることを目指し、教団が主を愛し主を畏れつつ教憲・教規に立つことを願い求める。
川原正言 西東京教区・南三鷹教会
(1)1937年
(2)鹿児島
(3)1952年・鹿児島城南教会・澤田鈴歳牧師
(4)オカリナ、水泳、最近筆でお習字
(5)マタイによる福音書17章20節
I編494番
(6)伝道に熱く燃える教団が形成できるように、全教会が力をあわせられるように、先立って歩まれる主について行きたいと思います。
小林貞夫 東海教区・日下部教会
(1)1929年
(2)山梨県山梨市
(3)1931年・日下部教会・小野善太郎牧師
(4)趣味は「教会」ということにしている。
(5)コリントの信徒への手紙一1章22~23節
Ⅰ編391番、21・494番
(6)聖礼典の一致を確立し、大胆で多様な伝道を展開したい。信徒の集まりを強化したい。
佐久間文雄 関東教区・志木教会
(1)1938年1月1日
(2)東京都世田谷区
(3)1960年4月17日・国際基督教団 代々木教会・吉本斗川牧師、
1967年より現在の志木教会に所属
(4)ゴルフ、カラオケ、旅行
(5)ローマの信徒への手紙12章11~12節
21・513番(歌詞はⅠ編332番)
(6)主の再臨を熱望しつつ主の栄光を表すものとして微力ながら参与したい。愚直に信仰告白に立って「十字架の救い」を伝えたい。
遠藤道雄 東北教会・福島伊達教会
(1)1933年4月22日
(2)福島県伊達市
(3)受幼児洗礼、信仰告白1961年4月・福島伊達教会・本宮幸四郎牧師
(5)エフェソの信徒への手紙4章30節、5章10節
21・405番
(6)各委員会が教団の教憲教規に則り信仰告白を告白しつつ活動し、更に、沖縄教区が一日も早く教団の諸活動に加わることを切に祈る。
髙橋豊 西東京教区・白鷺教会
(1)1932年
(2)愛媛県西条市
(3)1955年・岩国教会・高倉徹牧師
(4)ピアノ演奏・バッハ教会カンタータを毎日聴く
(5)ローマの信徒への手紙5章3~5節
Ⅰ編338番
(6)①教師とともに重荷を担う。
②教師と信徒の絆が深められてゆく教団。
③教師を立て教師の生活を守ることを最重要視。
④教団年金を守りぬく。
寺岡恭仁子 四国教区・屋島教会
(1)1939年
(2)香川県高松市
(3)1956年・高松教会・野町良夫牧師
(4)読書、旅行
(5)コリントの信徒への手紙一13章13節
Ⅰ編288番
(6)厳しい対立と不信の中で地方の普通の信徒に何が出来るか。聖書の御言葉と送り出して下さった方々の祈りに支えられたい。
河田直子 東中国教区・蕃山町教会
(1)1950年
(2)香川県高松市
(3)1986年・蕃山町教会・秋山徹牧師
(4)読書・音楽&美術鑑賞・茶道(裏千家)
(5)詩編139編、イザヤ書43章1~5節、フィリピの信徒への手紙3章12~14節
21・442番
(6)御子の血によって贖い取られた神の教会の群れが信仰告白によって一致し、説教と聖礼典のつとめを何よりも大切にして、伝道に励めますように(信仰はまだ若く小さな私です。ただ主のために用いられますよう、どうかお祈りでお支えください)。
大杉弘 中部教区・若草教会
(1)1933年
(2)石川県
(3)1973年・若草教会・井上良彦牧師
(4)ウオーキング
(5)詩篇23編(1955年改訳)
Ⅰ編288番(1954版に拘って)
(6)第37回日本基督教団総会は、主題に「教団の一致はいずこに?―御霊の導きを渇望しつつ―」を掲げた。しかし、退席した教区があり、教職が揃って聖餐に与らなかった教区があった。どのような聖言を語り、牧会がなされているのだろうか。その教区の信徒らの思いは如何ばかりであろうか。悲しい。 ひたすら、信仰の一致を求め、御霊の導きを求めて祈る日々を過ごすのみ。
統一原理問題相談会のお知らせ
左記のように統一原理問題相談会を開催します。同問題でお困りの方はお越しください。
◎日時 2011年1月21日(金)午後1時~3時
◎場所 日本キリスト会館 4階会議室
◎主催 東京地区原理問題連絡会
(新宿区西早稲田2-3-18 電話03-3203-4269)
◎交通 地下鉄東西線早稲田下車、あるいはJR高田馬場駅前より早大行きバス。
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
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