第36総会期最後の第6回世界宣教委員会が10月4日、教団会議室で開かれた。いつものように、傘下の各委員会の報告のほか、派遣宣教師の活動状況、国内各地にいる海外からの受け入れ宣教師の消息、海外からの訪問者、エキュメニカルな会議出席報告等、多くの報告と協議に時間を費やした。主な協議事項は、
1.派遣宣教師の任期延長、辞任の承認◎三浦照男宣教師(インド・サムヒギンボトム農業技術大学の働きを2013年9月30日まで、◎岡田則子宣教師(スリランカ・ランカ神学大学)2011年7月まで、延長することを承認。◎林田義行宣教師(台湾・高尾日本語教会)の任期延長については条件を満たすまで保留とした。◎アメリカ・パイン合同メソジスト教会の藤浪敦子宣教師は任期を満了し10月3日に帰国。同宣教師の辞任を承認。◎アメリカ・ハワイ・ウエスレー合同メソジスト教会日本語部上田創宣教師、12月末をもって辞任することを承認。
2.パイン合同メソジスト教会、宣教師推薦について、応募者1名を常任委員会において面接し、応募動機、適性などを検討のうえ推薦した。
3.ケルン・ボン日本語キリスト教会に派遣されている林原泰樹宣教師と娘・玲羅さんの病気治療のお見舞いのため、また、アメリカ、サンノゼ合同メソジスト教会の西之園路子宣教師の緊急援助としてそれぞれお見舞金を送ることとした。
4.「アジア日本語教会ファミリー・キャンプ」実行委員会より、2011年1月31日~2月2日にインドネシアのバリ島で行われる同キャンプの賛同者になってほしいとの要請があり、これに応じることとした。また、この会に加藤誠幹事も参加することとした。
5.宣教師受入れ基本方針に関して、教団と宣教協約を結んでいない教会からの招聘やキリスト教主義学校が独自の基準と方針に基づいて海外の教職者を招聘し、宗教活動に従事させる場合などの状況があり、受け入れ宣教師について教団の基本方針を検討する必要があることが協議された。宣教師人事委員会で検討したたき台を作ったうえで次期本委員会で検討するように申し送ることにした。
6.国際エキュメニカル平和会議(2011年5月・ジャマイカ)に教団より2名を派遣することとし、旅費の半額と保険費用を補助することとした。
7.宮川裕美子宣教師がフェイス合同メソジスト教会の働きを終えて帰国され、昼食を囲んで同師の帰国報告を聞いた。
(秋山徹報)
初のアジア地区開催
聖書協会世界連盟(the United Bible Societies=UBS)の2010年世界総会が、9月20日(月)から24日(金)まで韓国ソウルの江南地区にあるCOEX会議センターにおいて開催された。
聖書協会は1804年に設立された英国聖書協会(British and Foreign Bible
Society)に始まり、爾来世界各国に設立され、戦後世界連盟を結成して、現在150の各国聖書協会を擁し、聖書の翻訳、出版、頒布にあたっている。 2004年に創立200年を記念して、発祥の地ウェールズで世界総会が開催されたが、今回はアジア太平洋地区で初めて開催される総会となり、約400名の代議員が出席した。
日本聖書協会からは、理事長大宮溥、総主事渡部信夫妻、アジア太平洋地区理事のベランド・エミが出席した。
総会の主題は「神の言葉、世界のための命」で、「わたしが来たのは、あなたがたが命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ福音書10・10、
Good News Bible)の聖句が掲げられた。
聖書から方向と力を与えられる
総会は毎朝礼拝を守り(世界連盟の4つの地域である、アジア太平洋、ヨーロッパ中東、アフリカ、アメリカが順次担当)、午前中に、今日と明日の世界と教会を展望し、今後の活動の示唆を得るために、3つの基調講演がなされた。「教会」「文化」「若者」に関しての講演を聴き、それぞれ2名の代議員からの応答のスピーチがあった。
第1の「教会」を担当したのはペンシルベニア州立大学人文学教授フィリップ・ジェンキンズ氏で「変化するキリスト教世界における聖書」と題するものであった。世界のキリスト教は1900年に総人口の3分の1を占め、この割合は今世紀に入っても変わらない。しかし全体の人口の増大は著しく、1900年には16億であったのが、現在69億、2050年には92億に達する。特に南半球の人口増大は著しく、1900年と2010年の間に、ヨーロッパは25%増であったのに対して、アフリカは4930%、ラテン・アメリカは877%増であり、アフリカはクリスチャンが10%から46%になった。1900年のキリスト教人口は欧・北米が82%であったのが、今は38%、2050年には27%になる。南半球のキリスト教はカリスマティックでセクト・タイプであり、癒し、悪霊からの解放、霊的熱狂が顕著である。北では諸宗教間の対話・交流がみられるが、南では、特にイスラムとの関係において競合状態が激化している。これまではキリスト教会は「一、聖、公同、使徒的」と言われたが、今後の特徴は「地球的、非妥協的(アジアでは寛容)、ペンテコスタル、外向的」となる。このような時期に、教会にとって重要なのは、初代教会の出発点に帰ることであり、そのために「聖書」から方向と力を与えられることである。
第2の「文化」に関しては、フィリピンのコミュニティ・トランスフォーメーション・センター所長のメルバ・パディラ・マガイ博士(女史)が担当し、「われわれが奉仕する世界–聖書協会の宣教努力に対するグローバリゼーションの衝撃」と題して講演した。これまで北半球のインテリは、グローバリゼーションの時代を「キリスト教世界後」「世俗化後」の時代などと把握してきたが、それは歴史の表面的な解釈で、ラテン・アメリカの人々が「歴史の下層」と呼んでいるところから世界を見ると、イスラム、ヒンズー、キリスト教などの原理主義に見られるように「世界の脱世俗化」(ピーター・ベルガー)、すなわち、古典的な宗教の再興が起こっている。人類は意識の深層において伝統的な宗教文化に根を下ろして生きているのである。
現代人はハード面では高度情報社会に生きているが、ソフト面(心の文化)では伝統的な宗教に育まれて生きているのである。このような状況において大切なことは、それぞれの宗教の深みに徹することである。
キリスト教の場合でも、近代の世界伝道によって、アジア、南米、アフリカなどがキリスト教化されたが、それは表面に止まり、民衆の心の深層は原始宗教的な状態に止まっている。預言者的な深化が課題である。その時、グローバルなキリスト教の教会的交わりが、多様性の中での一致、一致の中での多様性を持つ、相互受容と相互訓練の共同体として大切である。
第3の「若者」に関しては、フランスのテゼ共同体の統括者ブラザー・アロイスとのインタビューが紹介され、ケニアのナイロビ・バプテスト教会のムネンギ・ムランディ牧師の「ユース・ミニストリーと福音の伝達」と題する報告があった。アフリカでは25歳以下の人口が全体の50%を占めるといわれるが、我々にとっても、青年自身を主体とした青年伝道の緊急性を改めて、感じさせられた。
全頒布数は年3億3千万冊
総会代議員は、省察分団と選択分団(聖書協会の課題18項目中から選択)に出席し、そこから世界理事会に対し今後の活動のための提案を採択した。「UBSのアイデンティティーとエトス」としては、これまで原則としてきた聖書の翻訳、出版、頒布に加えて、解説、宣布につとめる。聖書協会の連盟としての一致と地方的な多様性の均衡を保った運営。教派を超えた、とくに新興の教会をも包含する、共同訳聖書の作製。教会および関連団体との密接な提携。「使命のための資金再調達」では、厳しい聖書資金の調達のため、南の諸教会が資金受容だけでなく募金にも努力することと、北の諸教会が従来の形(主として基金の運用と献金)以外の資金入手をも努力すること。「文化と文化変容」では、経済的に困難な南に対する資金援助の継続と高度技術化の下で霊的貧困化する北の対応強化。イスラムの強大化に対応して、その文化的な文脈を考慮した聖書の表現を検討。移民と難民のための聖書。非識字層、視覚・聴覚の困難な人への聖書。IT文化に即応する聖書。「若者たちへのアプローチ」の努力などが提案された。
人事として、UBS総会は世界理事会(議長ノラ・ルチェロ・フィリピン聖書協会総主事)が各地域から選んだ4人の副総裁の中から、投票でロバート・カンヴィル博士(アジア地域、インド)を総裁に選んだ。またこれまで7年間にわたって総主事として貢献したミラー・ミロイ博士の後任として、英国のマイケル・ペロー氏が今年から就任することになった。
活動報告によればUBSは、前総会からの6年間に、旧新約聖書の頒布数は1億5978万9878冊(1年平均約2700万冊)、分冊まで含めた全頒布数は19億7801万8030冊(年平均3億3千万冊)であった。地域別では、この5年間の頒布の増加率は、アメリカ地区が42%、アジア太平洋地区が34%、アフリカ地区が16%、ヨーロッパ中東地区が8%である。
現状と課題。UBSに加盟している各国聖書協会は150に及ぶが、財政的に自立して他の協会を支援しているのは40余である。従来は支援協会が全体をリードする傾向があったが、次第に全協会の合議形態と、英国に事務所を持つ世界事務局中心の運営体制が強化されてきている。これは支援を受ける協会のガヴァナンス参与が高くなるので、人的、物的リソースの確保と増加に努力している支援協会側からは、その有効な管理と運用が強く求められる。
この二つの運営体制をどう均衡させてゆくかが当面の課題である。日本聖書協会は諸教会の支援と特に聖書頒布によって、運営の自立と支援協会としての責任をはたしており、このような動きが被支援協会の間に拡大することが望まれる。
(大宮溥報/日本聖書協会理事長)
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▼やや混雑したホームで目撃した。30歳くらいの女性が、階段を駆け上がってきた。掲示板を見るためだろうか、突然立ち止まり、振り返った。その女性の肩には、大きめのバック。意図せずも、バッグを振り回した格好になって、ホームの最前列にいた老人の背中をたたいた。老人は少しよろけ、半歩前に出たが、それ以上のことは避けられた。▼老人は何事かと振り向いたが、周囲に何の反応もない。その女性は、おそらく、自分のしたことに全く気づきもせず、人混みに紛れてしまった。電車が通過していったのは、何十秒も後のことではない。大惨劇と紙一重の出来事だった。このことを人に話したら、似たような目撃例を持つ者が少なくなかった。紙一重の出来事が日常的に繰り返されているのではと思うと、恐ろしい。▼人は背中に荷物を背負って生きている。しかも、それを自覚しないことが多い。車内アナウンスにあるように、荷物は胸に抱える方が、その自覚を持ち、対応が効くのではないかと思うがどうだろう。網棚に上げるのが一番良いかも知れない。▼教会はしばしば舟に準えられる。電車では時間も距離も短すぎてぴったり来ない。しかし、事柄によっては、電車の方が教会に酷似している。それぞれが心に荷物を持ち、乗り組み、そして、降りて行く点では。
ルカによる福音書12章49~53節
血肉の絆を超える絆がある 岡本知之
火 と 洗 礼
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と主は言われる。キリストの到来を平和の到来と考えたいわれわれを、この言葉は十分に狼狽させる。さて、ここに言われる火とは一体何のことか。
この言葉の直後に「その火が燃えていたら」と言うのであるから、イエスが来られたとき、この燃えていてほしいと願った火は燃えていなかったことになる。だから、主イエスは洗礼を受けなければならないと言う。この「洗礼」が何を指すかについては色々議論があるのであるが、私としては大方の理解と同じく、これが主の十字架を指すことはほぼ間違いのないところであると思う。
とすれば、イエスが燃えていてほしいと願った火とは、主の十字架によってのみ担われ得るところの、人々の罪を清めるための火であったと言えるのではあるまいか。主の十字架が、この火の役割を果たすことになるのである。いかなる意味においてか。血肉の運命共同体たる「家族」に、「分裂をもたらす」ことにおいてである。
宗教か信仰か
唐突なようであるが、私たちは「宗教者」ではない。「キリスト者」である。「宗教」は概念であるが「キリスト」は人格である。
「概念」は操作の対象であるが「人格」は出会いの対象である。
そして、この主キリストとの出会いを、われわれは「信仰」と呼ぶのである。ここで「信仰」とは、そのギリシャ語の原意のとおり、人格と人格との出会いにおける真実そのものに他ならない。
つまり、今日流行の「宗教多元主義」という概念は、その本質において、この「信仰」とは全く関係のない概念なのである。この両者を置換可能な事象であると考えるのは、完全なカテゴリー・エラーであり、キリスト信仰を宗教と同義とすることは、直ちに信仰の捨象を意味するのである。とすれば、信仰を宗教と同義と思い込んだ教会に残されるのは人間主体の宗教集団のみであろう。
今日の神学的状況における最大の問題は、ここに述べた「信仰と宗教の混同」と言うことであり、言葉を換えて言えば「神学の宗教学化と信仰の宗教化」と言うことである。
人類皆兄弟、諸宗教皆同じという発想は、実は人間中心主義に基づく血肉的結合の裏返しに過ぎないことを、われわれは知らねばならない。
キリストの到来の結果としての分裂
イエスと出会い、このイエスをキリストと知り、告白すること。そこから、家族内の分裂が始まると主は言われた。つまり「イエスとは誰か」、その判断を巡って運命共同体である筈の「家族」が、分裂しかつ対立する。
しかし、考えてみればこれは当然のことであり、全く以て意外なことではない。イエスをキリストと言うか、それとも唯の人と言うか、「家族」という血肉の共同体であろうとも、この理解が違えば、そこに「命の共有」はない。なぜならイエスをキリストとする主への信託(信仰=ピスティス)は、自己の人格的真実をかけた決断であるからである。主の言葉は、その清明な事実を摘示しているのである。
代々の教会は、主が十字架の上で息絶えられたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことを、正しく「宗教の終焉」と理解し、主の復活を「新しい命の関係の始まり」と、これもまた正しく理解してきたのではなかったか。
ここで信仰とは、私たちの主キリストに対する一方的な信託のみを意味する言葉ではなく、主キリストの、私たちに対する十字架の贖いの死と復活における真実に根拠を持つところの、救いの出来事なのである。
違いを超えうるもの
しかし以上のことは、決してわれわれを絶望させるために語られた言葉ではない。子から親への家庭内暴力や、親から子への虐待、さらには夫婦間の殺し合いの頻発は、今日における家族の血肉的結合の限界とその破綻を、われわれに突きつけるものであろう。
その現実の中に、主は血肉の絆を超える絆があることを提示されるのである。十字架に死に、人に命を与えるために、苦しみの洗礼を主は受け給うた。まさに「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられた」(コロサイ1・19~20)のである。
主が地に投げ入れられる火によって、人間中心主義を滅ぼされ、キリストの十字架によって、神との和解に招かれた者がその恵みに応えるとき、人と人とを結ぶ真の絆が結び合わされ、「地に平和が、御心に適う人に」(ルカ2・14)与えられるのである。
(西宮教会牧師、教団総会副議長)
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