第37総会期の第3回信仰職制委員会が8月22日(月)~23日(火)に、委員7名全員の出席のもと教団会議室で行われた。
今回、以下の一つの諮問に答申が出された。
〈諮問〉
「教団と教区との関係について」(1)…教憲第6条に、「本教団はその教会的機能および教務を遂行するために教区を置く」とありますが、教団が教区を「置く」ということによって、教団と教区とのどのような関係を規定していると理解すべきでしょうか。
〈答申〉
教憲第1条には「本教団はイエス・キリストを首と仰ぐ公同教会であって、…主の体たる公同教会の権能を行使し、…」とあり、教団が教会であると規定されており、また、教憲第7条には「教会の教会的機能および教務は」とあって、各個教会が教会であると規定されています。
他方、教区については、教憲第6条に「本教団はその教会的機能および教務を遂行するために教区を置く。教区は本教団所属教会の地域的共同体」とあり、教区は教会ではなく、教団が「教会的機能および教務を遂行するため」の「地域的共同体」と規定されています。
それゆえに、教区は教団から委任(*)されている教会的機能および教務を教憲・教規にしたがって遂行するものであり、また、地域的共同体として、各個教会が教憲・教規にしたがって教会的機能および教務を遂行することに仕え、教団所属教会間の連帯性を強化することに仕えるものであります。
(*)『教憲教規の解釈に関する答申集』15頁(教憲改正案解説中第6条部分)参照
他の二つの諮問については継続となった。
次回委員会は、11月7日(月)~8日(火)の予定。
(小堀康彦報)
第37総会期第2回教師検定委員会が、8月1日(月)~2日(火)、教団会議室において、委員7名全員の出席によって行われた。
事務局より1名の退任教師復帰に関する報告、西中国教区から「二重教職制問題」に関する要望書が教師検定委員会宛に送られている等報告があり、内容を確認してそれぞれ承認した。
委員長より「日本基督教団教師養成制度の検討に関する件」が常議員会で可決され、「同制度検討会議」が設置されたこと、8月26日に第1回会議が開催され、委員長と書記が出席予定であることの報告がなされた。信仰職制の筋を通していく上で重要な決定であり、必要な提言をしていくべきとの委員長説明があった。
教師検定規則第4条変更に関しては、第1回作業委員会が6月10日に委員4名で行われ、大学院のある関西学院、同志社、東神大のシラバスに基づいて科目対応一覧表作成準備を行い、「教師検定規則第4条第3号『読み替え』ワークシート」を作成し、各神学校教務課に送付したことが報告され、これを承認した。
2011年秋季教師検定(9月13~15日)実施に向けての準備を行った。願書の受付は補教師19名、正教師59名(内1名辞退)。4名についてコース・科目認定、受験志願者の受験資格審査、他教派からの転入志願者1名、復帰志願者1名の審査を行った。
提出物(釈義・説教、組織神学論文、神学論文、牧会学)の採点結果を突合せ、合否判定、再提出等をそれぞれ確定した。また、学科試験問題を委員全員で検討し、決定した。
さらに、受験志願者の受験費用に関して、18件の援助申請について確認し、合計359、600円の支出を決定。
面接のあり方について協議し、「試験」としての位置づけを明確にして実施することを決定した。従来、面接の冒頭で合否結果を告げていたが、これを改め、面接終了後、受験者に一度退出してもらい、委員会で面接を含めて合否を協議決定した後、再度入室してもらって結果を伝える形とする。全体会において説明することを申し合わせた。
(渡部和使報)
教会学校生徒の願いから学校は立ち上がった
▼キリスト教学校の視点から
先日、東日本大震災の被災地を訪れて、大阪空襲直後の光景を想起した。「滅びないものがあるのか」という思いである。
瓦礫の中から立ちあげた清教学園は、大阪の金剛山の麓にある小さな教会、長野基督教会の教会学校の生徒の願いから始まった。「毎日通える中学校を作って欲しい」という子供たちの願いに応えようと、1950年、教会に設立発起人会が設立されて、女性信徒の5、600㎡の土地提供、席上献金と毎月50円の募金を積み重ねて、中学校を設立し、5年後の高校設立に繋がった。
清教学園の目指す人間像は、①神を信じ、誠実に仕える②真理を学び、賜物を生かす③隣人と共に、平和を築く、であり、学校建設は、まさに「神のみ業」だった。
私は16年前、阪神大震災に遭遇した。16年前と結び付いている私の記憶は、「生かされた私」だった。東日本大震災、付随した原発事故では、「想定外」という言葉がよく使われる。
清教学園には駅から学校までの山沿い通学路「しらかしの径」があり、毎朝、校長が道を登り詰めたところで生徒一人一人と挨拶を交わすのが学園の伝統だ。十分用意をしているが、想定外のことがいつ起きるか、人間には知る術もない。最後の拠りどころは神に守って戴くことだ。
私たちの明日に何が待ち構えているか。知ることは出来ないからといって、神を幻想などということは、身の程を知らぬ驕りであろう。
(永井清陽報)
なぜ神は「悲しみの人」になられたのか ▼神学者の視点から
芳賀力教授の発題は、愛する家族を失い慟哭する人々に接した経験から始まった。そして、今回の震災で亡くなった2万人もの人々の死に対して、災害は繰り返されるということや、その数の多さゆえに鈍感であってはならないと述べた。
次に、宗教学者の山折哲雄氏や寺田寅彦氏の説に触れて、日本人に「天然の無常」という自然観があることを芳賀氏は指摘した。自然に逆らう代わりに諦め、膝を屈し、むしろそこから自分たちの生活をいかに築くかを考えていく「天然の無常」という自然観が本当の救いや慰めになるのだろうかと問題提起をなし、次のように答えた。
『人は自分が不条理を経験したときに、世界の破れ目に気づき、世界が救われなければならない存在なのだということを知る。つまり、危機に遭遇した時こそ、人の死と命、救いなどの根源的な問いに目覚める好機でもある。
しかし、科学技術が発達した今日、我々はその世界の破れ目に向き合おうとせず、人間の英知を用いた対症療法で取り繕おうとする。しかし、そのような人間の存在をはるかに超える〈より大いなる存在〉としての自然があり、その自然よりもはるかに大いなる方、世界を造られた神の存在がある。人間は、その神から、世界を神のぶどう園としてよく世話をするように委託を受けている。
原発事故そのものは天災に起因するが、それに伴って引き起こされたことは人災である。原子力の軍事利用のむごたらしさは広島・長崎が、商業利用の危うさは、チェルノブイリと福島が、世界に教える教訓になった。
世界は、神からの委託を受けた責任を心に刻んで、根本的に進路変更をしなければならない。そのことを率先して世界中に発信していく責務を、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマを経験した私たち日本人は負った』。
ここからさらに、「救いへの問い」を展開していく。
『ヨブ記の中心主題は、苦難の意味づけではなく、いかにして苦難の経験を通して生ける神との交わりを得、救いにいたるかという点にある。
このことは、人間の罪や過ちを棚に上げて神を糾弾する哲学的神義論ではなく、救済論へと導く神義論が必要であることを明らかにする。なぜなら、我々には主イエス・キリストが示されているからである。
主は、悲嘆にくれる人々に徹底して寄り添うために、自ら「悲しみの人」になられた。
それだけではなく、主は復活し、永遠の命の初穂となって希望を与えてくださった。さらに、陰府にまで降って福音を宣教されたのである。身近な愛する死者をキリストの御手に委ねる祈りをすることは意味あることであり、まことの慰めとなるものであろう。
さらに、共にうめき、執り成しをしてくださる聖霊なる神に言及する。キリストは「他者になりきることの人格(位格)的原理」であり、聖霊は「離れている他者と結び合い、合一化する人格(位格)的原理」である。神はご自身の中にこれほどに豊かな他者性と合一性を持っている憐れみの神である。
復旧・復興は長い道のりになる。救援・支援の情熱を持ち続けるには、この憐れみの神を想起させる礼拝に与って、共に祈るほかなく、礼拝から復興支援が始まる』。
このように語った後、「そして疲れたら、また礼拝に戻って来ればよいでしょう」と、芳賀教授は締めくくった。
(秋葉恭子報)
キリストの愛に裏打ちされて
▼キリスト教社会福祉の視点から
稲松義人氏(日本キリスト教社会事業同盟理事長)より「キリスト教社会福祉の視点から」と題して、発題がなされた。
まず戦後日本の社会復興が多くの海外援助に支えられた歴史から話し始められた。その中に教会やキリスト教に関係した多くの団体がある。東日本大震災での被災教会やキリスト教団体にも海外から多くの献金が送られている。同同盟では被災地のニーズを受けてワーカーを派遣し、地元の福祉活動が復興するまでの間、継続的に応援することを決めてプロジェクトを設置した。それらの働きを支えるための募金をお願いしている。
また救援対策委員として被災地へ赴き、「実践に立って議論する意味がある。社会福祉に立つ信仰者として感じたことを述べたい」と語った。
3月11日2時46分、稲松氏は浜松市で日本キリスト教社会事業同盟理事会に出席していた。閉会後、テレビ映像を見ると大津波警報が発令されていた。交通機関が閉ざされ現地へ行けない状態である。機動力のなさを痛感した。被災地では施設の職員が被災していることを思いながら、支援の仕方について考えた。現地の立場、生活を共にしながら働く覚悟、使命感のある人たちを、祈りを持って送り出す必要がある。それは伝道者を送り出すのと似ている。社会福祉の実践にどれほどの使命感があったかを今回、問われた。
小羊学園理事長でもある氏は、重度の障害を持つ子どもたちと接する中で、人間存在は価値ではなく、その関係の中でとらえてこそ理解できるものであることを学んだと語る。「愛のわざに励みつつ」(教団信仰告白)とは関わりを持ち続けること。神と人、キリストと人、人と人の関係の中にこそ、生かされている意味、救い、生きていくための指針が現されている。それは世俗的な価値観をよりどころとしている限り気づかない。
氏は被災孤児等の里親制度についても次のように呼びかけた。「福祉は施設だけがするものではなく、家庭、地域社会、私たちに命を賜わった神との関係にこそある。日々の生活で出会う悲しみの人と向き合ってほしい。関係に生きてほしい。そのような働きとして、全国の教会に里親制度を広めたい。生きる力が養われるよう、キリストの愛に裏打ちされた里親が増えてほしい」。
(松本のぞみ報)
震災を通して問われたこと
▼教会・牧師の視点から
2日目朝、4つ目の発題が、岡本知之教団副議長によって行われた。副題は「教会・牧師の視点から」。50分間の持ち時間を目一杯用い、まだまだ語りきれないことがあるという印象のする熱弁であった。実際、この発題に続く1時間の全体会でも、岡本氏に質問が集中し、発題を補完するかのように、答弁した。
内容は、正に主題の通り、「震災を通して問われたこと」であった。発題は、氏の豊富な知識、読書量に基づくものであり、地震・津波から、原発の崩壊、それに伴う放射線被害の拡大について、順序立て、論理立てて説明し、厳しく東京電力や原子力保安委員会の事故対応を批判した。その一々について、単にマスコミ報道をなぞるのではなく、氏の知識、読書、また現地に出向いての出会い・体験から丁寧に説明し、極めて説得力があった。
一方で、「学者の間でも見解が分かれることがあるのに、一方の側に与しすぎてはいないか」との批判が全体会で述べられた。氏の、この問題に対する情熱は、多くの聴衆の共感を呼んだが、同じ情熱が、政治的発言に傾いていると聞こえ、違和感を生んだのかも知れない。
ところで、氏の発題の重点は、必ずしも事柄の説明ではなく、特に、保守バプテスト同盟・福島第一聖書バプテスト教会と日本基督教団原町教会の事例を上げ、「教会・牧師の視点から」「震災を通して問われたこと」を鋭く追求することに主眼があり、教会とは何か、信仰とは何かという、本質に迫るものだった。
また、私たち「人間の欲望が全てを牽引していた世界が今回うちのめされました」との、玄侑宗久氏の言葉の引用に見られるように、原発問題に留まらず、文明論に接近するものだった。
最後の部分では、「現代の危機と教会」の中見出しが上げられ、①人間(=ことば)のメルトダウンと教会との小見出しが記された。人格、関係概念をキーワードに、現代人の人間性と教会人の信仰に触れるものだった。
限られた時間内に、沢山の話題と情報と、そして主張が込められており、これを、ダイジェストして紹介することは困難だが、もし、やや消化不良を来したとしても、実に有意義で、刺激的な時間だった。
(新報編集部報)
大木英夫氏(聖学院大学大学院長)による特別講演が2日目午後に行なわれた。2時間のプログラムは、1時間強を講演に、残りを質問、意見に答えることに用いられた。
大木氏の故郷は、今、「フクシマ」と呼ばれる。会津・喜多方、小学生のとき川越しに写生した教会堂に、氏が初めて入った経験を語ることから講演は始められた。陸軍幼年学校生として敗戦を迎え強烈な虚無の中で、氏は初めて教会の門をくぐり賀川伝道に触れた。これは彼岸にあった教会、かつては眺め写生する対象だった教会に自身が引き入れられることで、後に知ることになる、J・ウェスレーのアルダスゲートでの心燃える経験と同質のものであった、と言う。
講演本論は、大震災1ヶ月後に東洋英和女学院教職員研修会で行われた講演(4月23日付『キリスト新聞』講演要旨掲載)と、新報4727号(11年7月16日発行)巻頭メッセージを骨子とし、未曾有の危機の中で迫りを受けた「神に迫られた改革」、土曜日「墓の中に横たわるキリスト」、彼岸と此岸を橋渡し、歴史を貫く「心柱」としてのキリストといった鍵となる言葉で語られた。
新報メッセージで触れることのできなかったアウグスティヌス『告白』の一節「わたしは、死ぬことのないように、あなたのみ顏を仰ぎ見るために死のう」を取り上げ、告白すること、神の御前にあることの重大さに人間は強情に激しく争ってきた。しかし、「あの十字架の鮮烈さ、それは神が人間に究極の激しさをもって争っておられるのではないか」とした。
我々は大震災を外から見ることはできない。2万人もの犠牲者、殉職者たちを知るときに震災を生き延びた者たちはどうすべきかを考えねばならない。すでにメディアも、教会も「ひたすら忘却に耽っている」と警告する。バーゼル美術館でホルバインの描いた「墓の中に横たわるキリスト」を見たときの衝撃と、罪と死を忘れてしまっている「安価な恩寵」、日本のプロテスタント・キリスト教の軽薄さを指摘した。
エゼキエル書37章「枯れ骨の谷」を引き、我々は荒涼たる被災地を前に、神がエゼキエルに問われた「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と同じ問いを問われている。神がエゼキエルに告げるのは「お前たちは生き返る」であった。神が告げたのは「お前たち」であり、わたしたちを大震災の外には立たせないのであるとする。
創造主は救済者である(イザヤ46・4)。イエスは道である。しかも、生れ、死に、復活し、聖霊を送る「動く道」である。土曜日、墓に横たわるキリストは、死という否定を媒介として生へと、命へと動く。永遠に閉ざされた円環はキリストにおいて開かれたことを指摘する。
「心柱」というスカイツリーに用いられた日本古来の工法による建築物の世界一を誇るのではない。その建設地は、かつて関東大震災と東京大空襲において一切の廃虚を経験した土地である。東北もまた同じ再建で良いのか。歴史を貫き、「人生史世界史の深く内面に横たわるあの土曜日のイエスご自身が『ヨコの心柱』の啓示」である。「わたしは道である」と言う方に「神的な救済論的な彼岸へ動かす『動き』がある」のであり、今こそ「教会は教会に成らねばならない」と講演を締め括った。
特別講演を含め、シンポジウム発題等は活字として後日発行される予定とのことである。ぜひこれを手にされたい。
(渡邊義彦報)
信仰者としてどう受け止め、何を語るべきかを問う
東日本大震災・原発事故を信仰者としてどう受け止め、何を語るべきかを問う教団主催の緊急シンポジウムが8月29・30両日、銀座教会で開催された。「現代日本の危機とキリスト教-東日本大震災を通して問われたこと」を主題に、4人が発題、大木英夫・聖学院大学大学院長が特別講演を行い、濃密な、示唆に満ちたシンポジウムに延べ440人が熱心に聞き入った。内容は、教団出版局から出版され、内外に発信される。
第1日目午後1時30分から始まった開会礼拝で、北紀吉牧師(愛宕町)は、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と題する説教で、「神は死んだという人々がいるが、人々は神を乞い求めている。神を語らざるを得ない時代であり、教会はそのことを問われている。被災地に行って、夜、絶望のうめきを聞いた。闇の中に助けを求める叫び、うめきが脳裏から離れない。絶望のただ中に十字架のイエスが立っていて下さる。そこに救いがある。教会が語る救いとは十字架のイエスの救いしかない」と熱っぽく説いた。
続いて、石橋秀雄議長は、「死者・行方不明は2万人に上る。1人の命にどれほどの命が繋がっていたか、絶望の中にどれほどの人がいるかを思う。3月11日、私は東神大卒業式に出席中、大震災に遭遇し、2日後、『後ろから押される思い』で被災地を訪問した。『神から迫られていた』のだと思う」と開会挨拶を行った。
1日目、まず中山昇氏(清教学園元理事長)が、「キリスト教学校の視点から」発題を行い、戦後、大阪空襲の瓦礫の中から、「教会学校生徒の訴え」を教会が受け止めて、学園設立に至った経緯を説明して、大きな示唆を与えた。
続いて、芳賀力氏(東神大教授)が「神学者の視点から」「なぜ神は『悲しみの人』になられたのか」と題して発題。「昔から世界には不条理なことが多くあったが、私たちが意識しなかった。危機に遭遇した時こそ、根源的な問いに目覚める好機だ。神は、悲嘆に暮れる人に寄り添うために、自ら悲しみの人になられた。キリスト教の信仰は、復活の希望に掛かっている。神は憐れみの神であり、共に祈るほかない。礼拝から復興支援が始まる」と語った。
3人目の発題者、稲松義人氏(日本キリスト教社会事業同盟理事長)は、「キリスト教社会福祉の視点から」発題を行い、「社会福祉というと誰もが施設の充実を考える。だが、福祉は地域、家庭でなさるべきもので、施設があれば済むものではない。
クリスチャン・ホームに里子をという里親運動を進めているのはそのためだ。施設の再建はすぐには決まらない。募金は貯めておいて欲しい」と述べた。
2日目は、午前10時から岡本知之副議長(西宮)が、「教会・牧師の視点から」「現代日本の危機とキリスト教」と題して発題。原発24キロ地点の原町教会に震災1カ月後、朴貞蓮牧師が韓国・済州島から着任したが、外国では、日本より遥かに正確に事故の実態が報道されていた。
保育所の園児100名が避難所で何らかの変調を来しており、困難の中で礼拝を守っている状況を報告。内外で神の存在を否定する発言が相次いでいることを紹介して、教会の使命を強く訴えた。
午後は、大木英夫氏(聖学院大学大学院長)が「土曜日のキリスト」と題して2時間の特別講演を行った。大木氏は、3・11以後、日本は神から「改革を迫られている」として、「日本のプロテスタントが何故こうも軽くなったのか」と警鐘を鳴らした。
金曜日の十字架から日曜日の復活に至る土曜日、「日本はその土曜日にいる」として、仏教の「生老病死」の永遠回帰ではない「古い人から新しい人への奇跡的転向」洗礼にこそ、人間の究極の転換、前進があると説いた。
グローバリゼーションの風潮に触れ、「世界は教会に成りたがっている。だから教会は教会に成らなければならない」と締めくくって、深い比喩に満ちた講演を終えた。
講演後、質問に答えて、「『神に迫られた』のは、『日本を神学する』ことだ。バルトは、ヨーロッパのある時期に必要だった。神学について大改革が必要で、外国の神学に頼る時代は終わった」。
「日本のキリスト教会は、左右に別れ、教派の勉強ばかりしている。教団の一致というなら、真剣に悔い改めなければならない。キリスト教学校は根本的な改革を必要としている」。
「教会は主のもの。教会が劇場化しつつあるが、教会で人気取りをしてはいけない」など、示唆に富む刺激的な回答を行った。
(永井清陽報)
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2025
The United Church of Christ in Japan






