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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4732号】人ひととき 道林 直人さん 神の仕組んだ人生

2011年9月24日

1952年生まれ。東京都建設局職員。三崎町教会員。

「9月に入りましたので、パンダも一段落つきました」。都立公園整備管理事務所は上野公園の中にある。動物園にパンダが来たため、来客の整理などにかり出されることもあった。18歳で鹿児島から上京して、ずっと都の建築職として歩んできた。
10年程前、八丈島に転勤になった。当時の八丈島は2つの教会が合併しようという時だった。「八丈島の一番激動の時を、過ごしたと思います」。客員で過ごそうと思っていたが「若い役員がほしい」と言われ転会を決意。招聘委員に加わり、小田島泉牧師を招き、2つの教会が合併。しかし合併直後、小田島牧師が召され、新たに牧師を招聘しなければならなくなった。招聘委員長の役を受けるも、転勤で内地に戻ることになる。内地に身を置きながら、現任の一之木幸男牧師を紹介され、招聘した。その後三崎町教会に籍を移し伊豆諸島伝道委員会に加わった。「島と関わりたい」という思い故だった。
3年前、今度は三宅島に転勤になった。「神様、何か仕組んでるんじゃないのか」そう思った。三宅島伝道所は有名無実。「今度は三宅島のために一肌脱いで下さい」と言われ島に向かった。2人の信徒と数ヶ月に1回集まって祈るようになった。牧師が訪れ聖礼典を執行するようになるなどその集会が発展し、それが今年6月の百周年記念の礼拝に結びついていった。「私ができることはやります」というスタンスで、大きな役割を果たした。
島での経験を通して信仰が成長し、気持ちが強くなったと感じている。「過酷な条件の中で教会を維持し、伝道を続け、信仰を継承していくには、伝道に対する意気込みがなければできないのです」。その伝道にかける意気込み、都会では持ち得ない精神力は島で育てられた。
今は自分のことを「大変な所に遣わされる存在」と思っていると言う。時が経っても島の教会の存在は薄くならない。それを自分も支える者であるという意識を強く持って歩んでいる。

「部落解放 関東教区キャラバン2011」を、2011年6月25日~7月4日迄、日本基督教団関東教区と部落解放センターの共催で開催しました。キャラバン隊4名(東谷誠、犬養光博、小糸健介、山口政隆)とセンター実習生(桝田翔希)の5名で関東教区内5県を部落差別がなくなることを願い、出会いを求め、研修とフィールドワークをして参りました。走行1、177キロ、22会場1、373名の参加者でありました。各地で恵み多き集会でありましたが、隊員3名に3ヶ所の報告をさせていただきます。

足尾銅山フィールドワーク
犬養光博

予定表に足尾研修とあったので、もう一度田中正造のことが学べる、と楽しみにしていましたが、全く違っていました。足尾銅山跡、強制連行されて来た朝鮮人や中国人の慰霊碑、そして年月が経ち,多くの人々が必死に植樹をしたにも関わらず、未だにあらわになっている裸の山。
古川鉱業所は筑豊でも大きな炭坑を経営し、有名になった日向墓地は古川鉱業所大峰炭坑に強制連行された朝鮮人の墓です。
筑豊では山本作兵衛さんの絵がユネスコの記憶の世界遺産に登録されたのですが、足尾銅山は「負の遺産」ではなく、日本近代化に貢献した、という視点で世界遺産を狙っているのに驚きました。
「ここに朝鮮人の集落がありました」、案内してくださった平山正道先生(四條町教会)の手の先を見ました。そこは、前は川、三方は山に囲まれた天然の隔離地でした。それにしてもあちこちにキャンプ地や研修所が出来て、子どもたちが沢山やってくると聞きました。何を研修するのでしょう。
誰かがきちんと説明してくれなければ、過去の歴史はどんどん消されているのは筑豊も同じでした。
事実が消されるという意味では、足尾銅山に来る前に急いで立ち寄った日光東照宮の参道の両側に植えられている杉の並木が、被差別部落の所だけ抜けている、と聞いてびっくりしました。何万という参拝者の誰がそのことに気付くでしょう。
また、当日の夜、桐生東部教会でもたれた集会では田中正造と被差別部落のことが話題になり安田耕一さんが、今解っていることを語って下さいましたが、まだまだ解らないことが多い、と言われました。掘り起こさなければならないと思います。

佐渡フィールドワーク
山口政隆

部落解放キャラバンの4日目から6日目の間、私達キャラバン隊は佐渡島に滞在しました。キャラバンが始まり、手探りの中で毎日集会を行い、得がたい経験をしながらもそれをなかなか消化しきれずに行程を続けていた私達にとっては船で海を渡って訪れるということは一時の休息であり、解放の時間でもありました。
訪れた佐渡教会では荒井真理牧師と三村修牧師にとても暖かく、真摯に迎えてもらい、特に初日の夜に出して頂いた食事では佐渡の名産品を扱った料理が並べられ、一体これを作るのにどれだけ時間を費やしてくれたのだろうかと思うと、感謝の念を抱かずにおれませんでした。佐渡の地ではフィールドワークと集会を行わせて頂きました。佐渡島の歴史を教えて頂き、金山の跡地などを巡りましたが、やはり印象に残っているのはそこにもあった被差別部落の地域を訪れた時でした。地域の中の一人暮らしをしているおばあさんの家を訪問しましたが私達が訪れた瞬間、パッと明るい笑顔を見せて迎えてくれました。彼女から語ってくれたのはこの地域の辺りだけ道が狭く、消防車や霊柩車が入ってこれないということと、子や孫が帰ってきてくれてもこの家には泊まらず、近くのホテルに宿をとってしまうということでした。「建物があっても、人間はいない」とつぶやいていたのが忘れられません。
それでもおばあさんは市に道を広くしてもらえるよう今も訴えています。その姿に僕はここにも解放運動はあるのだと知らされ力づけられました。
佐渡教会では「命」「神さま」という言葉が日常的に使われていました。それはやはり厳しい自然の中で暮らしていると当たり前に出て来る言葉なのでしょう。私達は日本の広さを知ると同時にこの命、神さまを大切にすることが運動の大事な原点であるということを教えられ、出逢えたことに感謝し、次の場所である新潟へと向かいました。

狭山フィールドワーク
小糸健介

キャラバンもいよいよ最終日を迎えることとなった7月4日月曜日、午前中キャラバン隊メンバーと有志で向かった先は、部落差別が引き起こした最大の冤罪事件と言える「狭山事件」の現場とされる場所へのフィールドワークであった。

警察の執拗な取り調べに屈して嘘の「自白」をさせられた石川一雄さんが事件当日動いたとされる足取りを追う中で、改めて実際こんな動き方をするわけないのに警察の創作によって冤罪の物語が作られてしまったのだと実感させられた。
また、最寄り駅をはじめとして道路なども次々と整備や舗装がされていて、事件当日の面影を残すものがほとんどなくなってしまっていることにも、事件の風化を望む者たちの影が見え隠れする、そのような思いを抱かせた。そんな中で、当時の家が再現された作りとなっている狭山裁判闘争基地本部で石川一雄さんとお会いすることができ、お話を聞いた後に一句作ってくださった。「苦難故 涙は涸れずに 川となり 司法に激流となって攻め入らん」狭山事件の再審がなされ、石川一雄さんの無罪が証明される日が来ることを心から願わずにはいられない。
午後から会場を狭山教会に移し、みんな集まれ、部落解放関東教区キャラバン2011完走礼拝がもたれた。キャラバン隊5人がそれぞれ写真と歌を織り交ぜながら今回のキャラバンでまわった各地についての報告を行った。
そして再び石川一雄さんからのお話を伺う機会が与えられ、参加者一同は熱心に耳を傾けていた。石川さんのお連れ合いからも力強い話を聞くことができ、皆で支えていくことの大切さを改めて思わされた。
キャラバンも幕を閉じることとなった。

… 主の慰めと助けを求める祈りと礼拝のとき  …

911246、あの日あの時から半年。全てが揺さぶられ飲み込まれ、混沌そのものとされた311246の「あの時」と比べれば、目に見える光景はたしかに様変わりしつつある。しかし、大震災を何らかのかたちで経験した者の多くは、あの時を思い起こせば、おそらく足がすくみ、胸が締め付けられるに違いない。あれから半年の月日は、長いのか短いのか。まだ悲しみと嘆きの声はやまず、明日のことを思えば、不安と恐れに包まれ、何の展望も開けない人は少なくないだろう。信仰者といえど、まだ整理がつかず、11246の祈りの時ごとに、「なぜ」という問いがまた頭をもたげる。
しかし、その問いを抱えながらも主の御前でこの時を過ごそうと、「911246 この日とこの時間に共に祈りを」と石橋秀雄教団総会議長が呼びかけ、この大船渡教会に、祈り礼拝する人々が集まった。
まず、午後2時46分、記念礼拝に先立って、教団の救援対策本部担当の加藤誠幹事の司会・奨励により「祈りの時」がもたれた。マタイ福音書6章の「思い悩むな。空の鳥、野の花を見なさい」との主イエスのみ言葉を聞きながら、祈りを合わせた。大船渡教会と地区から参加した諸教会の信徒らの祈りと主の祈りによって、主の御前に心が一つにされていった。
祈りの時が終わった頃、湯沢教会で主日礼拝説教の奉仕をした石橋教団議長が駆けつけ、午後3時30分から記念礼拝が始められた。説教は、江刺教会牧師の邑原宗男奥羽教区総会議長。「ただ主の助けが」と題し、イザヤ書49章7~9節からみ言葉を聴いた。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」と主は言われる。主の「答え」と「助け」はどのように現されたのか。邑原牧師は、まずあの日あの時以降の出来事を振り返る。行方や安否を問い合った。様々なかたちで救援活動に走った。どの教会の信徒も牧師も同様だったかもしれない。人それぞれ、声を掛け合い助け合った。そうした日々を思い起こす。まさにこのような多くの人々の、また私たちの様々な働きを通して、主は答え助けてくださったと、邑原牧師は語った。
一般的にはむしろ、「神は何も答えず、何の助けも与えない」とさえ言われる。しかし私たちは、主の答えと助けを見ることが許されている。「恵みの時」というのは、このような時のことだろうか。
大船渡教会でこの「祈りと礼拝の時」を過ごしたのは、約60名。主に岩手地区の教会の兄弟姉妹だが、ボランティア活動のさ中の人たちや、初めて被災地を訪ねたという人々もいる。様々な思いを持って集まったであろう。まだ痛みの癒えない人もいる。ただ黙々と目の前の現実と取り組むだけの人もいるかもしれない。
村谷正人牧師が、挨拶の言葉の中で、「雪中を歩いたことのある東北の人なら誰でも知っていること」として、「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」と高村光太郎を引用した。今日、「祈りと礼拝の時」を過ごした者は、主の答えを聞き主の助けを見ながら、主が与えてくださった道が出来ることを信じて、また今日から前を向いて進もうと思えたのではないだろうか。
911246、もう半年、しかしまだ半年。復興と再建の道は遙かだが、主の答えを聞き主の助けを見ながら前に進もうと、心を新たにされた「恵みの時」だった。
(藤盛勇紀報)

宮島新也氏(隠退教師)
11年6月12日逝去、74歳。東京都に生まれる。’62年青山学院大学を卒業、’64年相良教会に赴任、’88年より’89年まで吾嬬教会を牧会し、’99年隠退した。遺族は妻・宮島園子さん。

第37総会期の第3回信仰職制委員会が8月22日(月)~23日(火)に、委員7名全員の出席のもと教団会議室で行われた。
今回、以下の一つの諮問に答申が出された。
〈諮問〉
「教団と教区との関係について」(1)…教憲第6条に、「本教団はその教会的機能および教務を遂行するために教区を置く」とありますが、教団が教区を「置く」ということによって、教団と教区とのどのような関係を規定していると理解すべきでしょうか。
〈答申〉
教憲第1条には「本教団はイエス・キリストを首と仰ぐ公同教会であって、…主の体たる公同教会の権能を行使し、…」とあり、教団が教会であると規定されており、また、教憲第7条には「教会の教会的機能および教務は」とあって、各個教会が教会であると規定されています。
他方、教区については、教憲第6条に「本教団はその教会的機能および教務を遂行するために教区を置く。教区は本教団所属教会の地域的共同体」とあり、教区は教会ではなく、教団が「教会的機能および教務を遂行するため」の「地域的共同体」と規定されています。
それゆえに、教区は教団から委任(*)されている教会的機能および教務を教憲・教規にしたがって遂行するものであり、また、地域的共同体として、各個教会が教憲・教規にしたがって教会的機能および教務を遂行することに仕え、教団所属教会間の連帯性を強化することに仕えるものであります。
(*)『教憲教規の解釈に関する答申集』15頁(教憲改正案解説中第6条部分)参照
他の二つの諮問については継続となった。
次回委員会は、11月7日(月)~8日(火)の予定。
(小堀康彦報)

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