1932年生まれ。79歳。玉川教会員。
小説『夢の中の狂宴』(『たね』39号所収)で、2010年度全作家文芸時評賞を受賞した。「物語によって真理を伝えたい」という課題を自らに課しつつ「キリスト者以外に認められるキリスト者の文学」を目指してきた。今回の受賞は、その目標達成に関わる出来事だ。
青山学院大学卒業後、石油会社に入社した。三重県四日市で勤務していた時、公害問題が起きた。8百人が死亡し、大気汚染とぜんそくの因果関係が裁判で争われたが、その過程で、被害者の苦悩や利潤のみを追求する企業姿勢を知り、小説『透明な霧』を発表。結果、信仰的な決断をもって退職。その後は、外資系の物流会社に移り、海外出張で多忙の傍ら、それでも、創作活動は続けてきた。
四日市時代に、佐古純一郎の講演を通して「たねの会」と出会う。椎名麟三を中心とした、数少ない、日本におけるプロテスタント作家たちの集まりだ。椎名から「文学をやる人が少ない。やってみろ」と促された。
全作家協会における選評に「イデーにおいて傑出している」とあった。リアリズムに対比して「イデーがあってストーリーがある」というのは、「たねの会」のもっている方向性でもある。「父なる神」のイデーを失わない点で、遠藤周作ら日本のカトリック作家とは一線を画する。しかし、これが、日本におけるプロテスタント文学の確立につながらない要素である。退職後、15年間、日本聖書神学校で「日本人とキリスト教文学」の講師を務めたが、今でも、椎名の継承は課題としてある。
1957年、三崎町教会で山北多喜彦牧師より受洗。胃がんを患い、回復するも、残された時を意識するようになった。
昨年「たねの会」は50周年、今年、椎名生誕100年。韓国のプロテスタント作家たちとの関わりの中で、カトリックであった安重根を取り上げた小説に取り組む。歴史認識を乗り越える福音の力を信じて。
東日本大震災から7か月を過ごした私たちは、特別伝道礼拝を迎えた。特別伝道礼拝は、レクリエーション(再創造)、神が私たちをこの礼拝から新しく創造してくださるという期待を持って祈り、計画を始めた。特別伝道礼拝は、当教会の恒例行事であったが、今年度は、やはり大震災を踏まえずには何も考えられない。具体的な計画を始めたのは震災から半年が経とうとしていた時であり、改めてこの半年間の変化や兆しを問われる機会も少なくなかった。
大震災以来、私たちの礼拝の歩みは痛みの中にあった。4月、着任したばかりの礼拝で、聖壇から見る幾人かのお顔には涙が流れていた。何とかしてこの痛みを取り去り、慰めの言葉を語らねばならないと躍起になった。しかし、6月に参加した聖学院主催の教会と学校との懇談会で講演と報告を伺い、礼拝に向かう姿勢を根本的に問い直された。7月から、礼拝で嘆きの詩編を祈り続けた。この月、一人の兄弟が病に倒れ、集中治療室での闘病と共に家族の看取りが始まった。兄弟は、特別伝道礼拝の2週間前に召された。復興の中にも、嘆きは確かに残されている。
一方、特別伝道礼拝のテーマとして「嘆き」を前面に出すことには抵抗を覚えた。普段あまり礼拝に来られない方を教会にお招きする場に、ネガティブなテーマはふさわしくないように思えた。教会には明るいイメージが必要ではないか? 役員会で意見交換をしていく中で、違う意見も出た。震災によって、思いもよらない人々との出会いが与えられたことへの感謝である。最も困窮していた時に、日本ホーリネス教団諸教会から物資の支援をいただいたことは忘れられない。たくさんの方々が私たちの教会を憶えてくださり、実際に足を運んでくださった。一方で、教会生活を共にしてきた兄弟姉妹との別れも経験した。それぞれが、さまざま思いを心の深いところに抱えており「嘆き」の通奏低音は響き続けている。教会を明るく見せようとか、元気な言葉を捻出しようとかというのではなく、神の前に本当の自分を置くことのできる素直な場所として教会が開かれるよう願った。ネガティブなものもポジティブなものもすべて神への献げものとする歩みへの招き「嘆きと感謝の歌を!」というキャッチフレーズを作った。
特別伝道礼拝には、藤沢教会聖歌隊有志の諸兄姉方をお迎えした。藤沢教会は、私が3月まで伝道師としてお仕えした教会である。当教会が奏楽者不在となり、ヒムプレイヤーで礼拝を導くことの難しさを課題の一つとして憶えていただいた。私たちは、ヒムプレイヤーに慣れることにも増して、新しい奏楽者が与えられることを切望している。礼拝堂のオルガンの奏楽に導かれる礼拝は、故郷に帰って来たような安心を与えるものである。故郷である私たちの小さな礼拝のために、藤沢教会の兄弟姉妹は心を砕いて祈ってくださった。そして、幾度も奏楽者をお送りくださり、この関係の中で大阪・蒲生教会員で東京在住の姉妹にも月一度のご奉仕をいただいた。さらに、聖歌隊の奉仕を申し出てくださったのである。
私は、藤沢教会の礼拝がどのように計画されているかも知っており、一度に30名近い聖歌隊のメンバーが抜けてしまうことは申し訳ないように思えた。しかし、主任の村上実基牧師は、藤沢教会が毎週完璧な礼拝をささげねばならないわけではない、磐城教会の礼拝の助けになればそれでよいとおっしゃった。私たちの礼拝は、20名に満たない小さな群れである。完全なものには遠いかもしれないが、確かに、主のからだの肢である諸教会とつなげられ、補い合っている。主の日には、いわきで、藤沢で、全国各地の至るところで讃美の声が上げられ、そしてそこには天の軍勢の讃美も加わっているに違いない。大いに励まされた。
この度の特別伝道礼拝に説教者としてお招きした松本周牧師(聖学院大学)は、土浦教会の嶋田恵悟牧師と日立教会島田進牧師と共に、震災以降初めて当教会に駆けつけてくださったお一人である。3月31日午後、ちょうど私がいわきに入って2時間ほど後のことであった。その時はまだ、教会員の半数以上が避難していた。松本師は、度々福島・いわきを尋ねてくださり、震災からの歩みを憶えていてくださった。松本師と藤沢教会聖歌隊指揮者の木村牧子姉、そして当教会の三者間で具体的な計画を進めた。当教会の7か月の歩みを顧みながら「嘆きと感謝」のテーマを思い巡らし、メールでやり取りをする中で、福島、埼玉、神奈川にある私たちの計画は、驚くほどに響き合った。
礼拝は、聖歌隊による招きの讃美「静けさのただ中で」(アイオナ共同体)から始まり、第二コリント1章3~11節が朗読された。ヨハネ福音書2章の〈カナの婚礼〉の朗読の後、松本周師を通して、深い慰めのみ言葉をいただいた。教会員の家族や友人方、幼稚園の保護者など8名の新来者を迎えた。
午後の讃美集会には、いわき市内にある常磐教会、勿来教会の皆さんをお招きした。第1部は、聖歌隊による讃美として、瞬きの詩人と呼ばれる水野源三氏の歌「主よ、なぜ」、「主よ、御言葉をください」などを聴いた。第2部では、立証と木村牧子姉の独唱「一羽のすずめに」に耳を傾けた。第3部では、木村姉のリードにより一同で讃美する時間を過ごした。
その中の一曲として、関東大震災から生まれた「とおきくにや」(聖歌)をリクエストされた松本師が、震災で会堂が取り壊された福島教会を訪問され、更地に取り外された十字架が横たわっていたこと、「とおきくにや」の「十字架はかがやけり」のフレーズが頭に巡ったことをお話しくださった。常磐教会の会堂もまた、半壊の判定を受け、この冬、取り壊される。そのような痛みの中でも私たちは、十字架の光を見つめて歩みたい。
最後に、「キリストの平和」の歌の間、参加者すべての人たちが握手し平和のあいさつを交わした。常磐教会の武公子牧師の祈りにより、会を閉じる祈りが導かれた。
(上竹裕子報/
磐城教会牧師)
第37総会期第2回世界宣教委員会が9月16日、教団会議室で開かれた。前回委員会後に東日本大震災が起こり、世界宣教担当の加藤誠幹事、高田輝樹職員が教団の救援対策を兼任することになった。このために、被災現地に赴き救援活動の立ち上げなど多忙を極めた。その上、海外の教会からの問い合わせと救援や献金の受領、現状視察の来訪者への付き添いなどが相次ぎ、ほとんどパニック状態に陥るなかで働きが続けられてきた。委員会ではこの間の来訪者や派遣宣教師の消息、傘下の各委員会の活動の報告を聞き、それぞれの働きを確認した。
その中で、教団より初めて大韓イエス教長老会への派遣宣教師となる洛雲海(ナグネ)宣教師が長老会神学大学の教師としての就職が決定、PCK総会で同教会総会議長、神学校総長と石橋秀雄議長との間で調印式を行い、教団としての派遣式を10月に行うこととなったこと、また、今年7月に予定していたスイス、韓国、教団の三国間協議会が地震のため2年間延期とすることになったこと、EMS宣教会議が6月23~28日にドイツのホーフガイスマルで行われ、秋山徹書記が参加し、EMSの世界宣教活動の全面見直し、規則変更、ドイツだけでなく加盟教会も負担金を担うことになったことなど、重要な出来事の報告を承認した。また、この間にアメリカ、韓国、台湾、スイスなど宣教協約を結んでいる教会、その他ドイツや世界の教会からの使節団の来訪や多額の献金、祈りが寄せられ、世界の教会との絆によって教団が支えられている事実を聞き、感謝を共にした。
協議事項として、(1)ボリビアのラ・クロス教会から大熊豊子宣教師の後任となる宣教師の派遣依頼があり、公募への応募者があり、面接をしたうえで推薦を決めた。(2)カナダのバンクーバー日本語教会の次期宣教師予定者を面接し、応募の動機や志を確認したうえで、正式の書類が整い次第推薦することに決めたが、現在同日本人教会のパートタイム牧師の木原葉子宣教師はフレーザーバレー日系人教会牧師として派遣しており、教団の承認を経ないで兼任となっているので注意を促すことにした。(3)また、クアラルンプル日本人キリスト者集会(JCF)への新たな宣教師派遣の依頼があり、これについて検討し、更に状況を調査することとした。(4)ベルリンの秋葉睦子宣教師の任期を2014年まで3年延長することを承認した。そのほか、神学校卒業者を宣教師として派遣するに際し、准允を経た上で教団の教師として派遣する配慮が必要であることを確認した。
(秋山徹報)
台風12号のもたらした湿気が残る9月4日~5日にかけて、山口県宇部市にある宇部緑橋教会を主会場にして、西中国教区・部落解放現場研修会が開催された。
4日は18時から、教区・部落差別問題特別委員会委員長である東岡山治牧師(上下教会)による開会礼拝に続いて、部落解放同盟山口県連合会書記次長・川口泰司さんによる、「山口県の部落問題の現状について」の講演を聞いた。川口さんは、『朝日新聞』夕刊の連載コラム「人脈記・差別を越えて②」(10年1月)でも取り上げられていたので、ご存知の方も多いと思う。
講演では、山口県内の被差別部落の実態から始まり、この5・6年の間に山口県内で起きた差別事件、更には、人権意識の啓発を旨とすべき市町村の公的機関が犯す差別事件について、具体的な事例に則して、詳しく解説された。
その中でも特に、中学生が同じ高校を目指す同級生に対して、入試競争を有利に運ぶために、自らも、そして別の同級生を促しても差別発言を繰り返していた事実には、大きなショックを受けた。差別がもたらす“こころの荒廃”を眼前に突きつけられる思いがした。
翌5日は、会場を宇部市厚南隣保館に移して、山口県人権・同和教育研究協議会委員長である萩商工高校教諭・高林公男さんによる、「山口部落解放史を学んで」と題する講演を聞いた後、隣保館がある上中野地区のフィールドワークを行った。同地区の同和対策事業は、道幅拡充などの区画整理が主で、集合住宅などが無く、同和地区であることの痕跡を留める風景はない。その意味で、昨年の呉でのフィールドワークとは対照的であった。しかし、そうした中にも、根深い差別の実態が今なお続いて存在し、それが若者から高齢者まで蝕んでいる現状を教えられたのが今回の現場研修会であった。参加者は講師・現地案内者を含めて30名と少なかったが、昨年の講師の嶌本敏雄さんも近江八幡から参加、充実した集会を持てたことを感謝したい。参加者一同、解放に向けての新たな歩みを始めるべく、西嶋佳弘牧師(広島牛田教会、委員会書記)の閉会祈祷をもって2日間のプログラムを終えた。 (金澤昌善報)
9月21日、第2回青年担当者会が教団会議室で開催された。青年担当者会は、教会教育の現場において特に「青年」に対象を絞った活動が各教区でどの様に展開されているか情報交換をすることと、また全国の青年活動にネットワークができることを願って、前総会期に第1回目が開かれた。今回はその2回目になる。台風が迫り来る天候下であり、また葬儀など教会の事情で集まることのできない担当者もあったが、全国16教区と東京教区の5支区から11名の参加者があった。
岸憲秀教育委員長により開会礼拝、担当者会の趣旨説明がなされた後、参加者の連なる各教区での青年会活動の現状報告がなされた。
以下、幾つかの報告を記すと、青年会活動が教区や地区で行われているところ、自主団体に委ねられているところなど活動の形態は様々である。ワークキャンプや修養会を続けているところもあれば、かつては行われていたところもある。地区の持ち回りで修養会を開催する場合、開催地域までの距離や修養会の主題などによって集まり方が異なる。そもそも「青年」の年齢層が10代~40代と非常に幅広い。また青年会活動の中心となる人物があるかないかで活動の内容の違いがあることなど、固有の課題もあれば、共通した問題としてうなづき合う場面も多々あった。
午後には、雲然俊美教団書記より「若者は幻を見る~青年伝道のビジョン~」と題して発題を受ける。老人伝道青年牧会の必要性が語られる現代、青年一人一人に向かい合い寄り添いつつ、共に神のみ前に進み出ることが語られた。またボランティア活動に触れながら、自分の用いられるところを求めている青年たちの姿にも触れられた。
次に、高砂民宣青山学院大学宗教主任より、学校での青年伝道について発題を聞く。各学部に宗教主任をおきキリスト教信仰に基づいた青年伝道に力を注ぐ大学の取組は、目の前の青年のみならず、社会人として世に仕える人材の育成につながっている現状と望みをうかがった。
(清藤淳報)
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