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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4779・80号】社会委員会 北陸・能登にてフィールドワークを実施

2013年8月17日

6月17日から18日にかけて第38総会期第2回社会委員会が七尾教会にて開催された。会議の前後には、北陸は能登半島の教会・伝道所の訪問およびフィールドワークが行われた。
訪れた輪島教会、羽咋教会、富来伝道所、七尾教会はいずれも2007年3月25日に発生した能登半島地震で被災した教会・伝道所であるが、教会堂および関連諸施設の再建が果たされた姿を見ることとなった。当該教会の教師および信徒と共に、主の導きをおもい祈るひとときとなった。
震災当時の社会委員会による迅速な対応と支援の呼びかけ、それに端を発する各教区、教団からの支援に対する感謝の意が異口同音に聞かれたことは印象的であった。
フィールドワークとしては、就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律の一部を改正する法律の公布に伴う、制度変更の要点のレクチャーを受けた。
同時に、教会関連諸施設を訪問し、施設長、職員から今後の可能性と課題を現場の声として聞いた。
見学した施設は次のとおり。(学)羽咋白百合学院ゆりっこ児童クラブ、(学)羽咋白百合学院羽咋白百合幼稚園、(学)七尾学院七尾幼稚園、認定こども園福岡幼児学園〈(学)富山学院福岡幼稚園・(社福)坂ノ下福祉会福岡保育園〉。
北陸電力志賀原子力発電所30キロ圏内にある羽咋市の学校・幼稚園・保育所には、原子力災害時の放射線障害予防薬として安定ヨウ素剤が配布されている。しかし災害時、これを服用させるには羽咋市長による服用許可命令が必要となる。また、幼児に服用させるためには、錠剤の形態をとる安定ヨウ素剤を砕き、適量に分けなければならない。緊急時に有効なものとして機能するのか、子どものいのちをあずかり守る働き人の懸念は絶えない。
厳重に施錠された箱で管理されている安定ヨウ素剤の存在に原子力発電所隣接地域の緊張と、日本国全体で向き合わなければならない諸課題が垣間見られた。
(村上恵理也報)

ガラテヤの信徒への手紙2章20節

生きること、食べること

8月16日には、五山の送り火が終わりました。下旬には地蔵盆があります。日本では、夏は生と死とが交差する時期です。この時に生と死について考えてみましょう。
生きるということは食べることです。人はパンのみでは生きていませんが、パンなしでも生きられません。その意味では、生きているということは他のいのちを奪うことです。そのことを描写した詩があります。
「くらし」
石垣りん
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかつた。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばつている
にんじんのしつぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。
『石垣りん詩集 表札など』
(2000年 童話屋)

ごはん、野菜は植物ですからあまり命を奪ったという気がしないかもしれませんが、肉は牛や豚で、鶏であり、魚なのです。生きていた命を殺して、私たちは食卓へと運ばせているのです。その意味では、生きるということは他のいのちを奪うことです。
そして、食べ物だけでも生きられないわたしたちは、「親を、きょうだいを、師を」食うことにもなるのです。もちろん、「肉を」食うように人を食べるのではありませんが、誰かを犠牲にしているということです。
「ふくれた腹をかかえ」て、少し人生の余裕を持つことが出来て詩人は来し方を振り返ってみるのです。すると「台所に散らばつている……父のはらわた」が見えたといいます。父の心や魂を乱暴に扱ってきた自分の前半生が詩人には見えたのです。父だけではありません。「親を、きょうだいを、師を」もです。申し訳ないと涙を流しますが、「食わずには生きてこれなかつた」のです。詩人は、「ごめんなさい、もうしません」とは言えないのです。これからも、おそらく食べ続けなくては生きられないからです。だから、涙を流すのです。しかし、人の涙でなく、「獣の涙」を流すのです。生きることの罪をみごとに描いた詩です。

イエス・キリストの十字架

このいのちの定めゆえに、イエス・キリストは十字架に架かってくださったのです。私たちへの愛の行為です。この時から、すべてのものの死は、愛の行為となったのです。
私たちは生きるために、親や多くの人々の犠牲を必要としています。その犠牲が私への愛でできているなら、どうでしょう。私たちは、親の犠牲に気付かずに成長してきました。両親も犠牲とも思わず、子どもたちへの愛ゆえに喜んでなしたことなのです。
私たちはこの親をその愛ごと食べたのです。それゆえに、「獣の涙」を超えててゆくのです。私たちは、ビタミンを含む食物を食べて、ビタミンを摂取し、たんぱく質を含む食物を食べて、たんぱく質を自らのものにします。それなら、愛を食べれば、愛を摂取したのです。その愛を自らの血肉となして生きているのかという問いが涙となって目に溢れれば、その涙は、その愛に相応しい生き方を求める祈りになって神に向います。
同じように、多くの牛豚、魚も、愛ゆえに死んでくれたのではないでしょうか。イエス・キリストの十字架は、これらのいのちの中にも立てられているのです。私たちは、神の愛の中にいのちを営むものです。
犠牲になってくださった愛に応えたいという祈りによって、私たちのいのちも愛になるのです。
そのとき、私たちのいのちと化した他のいのちはわたしを通してこの世に再びその姿を現わすのです。

神の右に座すイエス・キリスト

しかも、死が生にただ吸収されるだけではありません。地でイエス・キリストが私たちの内でいのちとなってくださっているのと同時に、天で神の右に座しておられるのです。それなら、私たちのために死んでくださったものも、また、天において永遠のいのちになっているでしょう。
それは歴史においてもいえるのです。数えきれないほどのいのちが失われた太平洋戦争がお盆に終戦を迎えたのは偶然の一致ではありません。この平和がたくさんの死者の上に樹立されたものであることを私たちが忘れないためです。私たちへの神の配慮です。
太平洋戦争では、日本兵は170万人以上、民間人も35万人以上亡くなりました。中国では1700万人、ベトナム、ビルマなどの東南アジアでも民間人と兵士を合わせて1千万人を超える人々が死にました。日本の平和はこの犠牲の上に成立したのです。
この人々に思いを寄せるのが8月15日です。戦争で亡くなられた方々の一人一人の死を、キリスト者である私たちは、イエス・キリストの十字架とともに受け止めなければなりません。彼ら一人一人の死は間違いなく、私たちへの愛なのです。

キリストが内に生きておられる

ガラテヤの信徒への手紙2章20節は私たちが福音によって与えられた生き方を示します。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。
私たちは、死んでいったものたちによって、生かされています。そのことを教えてくださるのがイエス・キリストです。
キリストがわが内にいのちとなってくださっているのです。このキリストのいのちに甦るために、今までの生き方を葬らねばなりません。自我を葬り去り、キリストの沈黙の声に耳傾けるのです。
まさに、私の中の本当の私であるキリストに生き生きと活動して頂くのです。それは、愛そのものとなって、この世に自らを解き放つことです。
その時あなたは、私たちのために死んだものたちと同じく、他者のために、死んでいくものとなるでしょう。十字架のイエス・キリストのようになるのです。そして、キリストと共に甦るのです。そのように、永遠のいのちの道を歩んでゆきましょう。
(向日町教会牧師)


			

1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
1:11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。
1:14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。
1:15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。
1:16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。
1:17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

2013年8月16日

1:1 神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
1:2 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
1:3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:4 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
1:5 あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
1:6 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、
1:7 その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。
1:8 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。
1:9 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

2013年8月15日

28:17 三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。
28:18 ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。
28:19 しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。
28:20 だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」
28:21 すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。
28:22 あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」
28:23 そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。
28:24 ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。
28:25 彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、
28:26 語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
28:27 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』
28:28 だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」

28:30 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、
28:31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。

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