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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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エレミヤ書2・4~13

2026年2月4日
ヤコブの家よ
イスラエルの家のすべての部族よ
主の言葉を聞け。
主はこう言われる。
お前たちの先祖は
わたしにどんなおちどがあったので
遠く離れて行ったのか。
彼らは空しいものの後を追い
空しいものとなってしまった。
彼らは尋ねもしなかった。
「主はどこにおられるのか
わたしたちをエジプトの地から上らせ
あの荒野、荒涼とした、穴だらけの地
乾ききった、暗黒の地
だれひとりそこを通らず
人の住まない地に導かれた方は」と。
わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き
味の良い果物を食べさせた。
ところが、お前たちはわたしの土地に入ると
そこを汚し
わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた。
祭司たちも尋ねなかった。
「主はどこにおられるのか」と。
律法を教える人たちはわたしを理解せず
指導者たちはわたしに背き
預言者たちはバアルによって預言し
助けにならぬものの後を追った。
それゆえ、わたしはお前たちを
あらためて告発し
また、お前たちの子孫と争うと
主は言われる。
キティムの島々に渡って、尋ね
ケダルに人を送って、よく調べさせ
果たして、こんなことがあったかどうか確かめよ。
一体、どこの国が
神々を取り替えたことがあろうか
しかも、神でないものと。
ところが、わが民はおのが栄光を
助けにならぬものと取り替えた。
天よ、驚け、このことを
大いに、震えおののけ、と主は言われる。
まことに、わが民は二つの悪を行った。
生ける水の源であるわたしを捨てて
無用の水溜めを掘った。
水をためることのできない
こわれた水溜めを。
2026年2月3日
主の言葉がわたしに臨んだ。
「エレミヤよ、何が見えるか。」
わたしは答えた。
「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」
主はわたしに言われた。
「あなたの見るとおりだ。
わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと
見張っている(ショーケード)。」
主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。
「何が見えるか。」
わたしは答えた。
「煮えたぎる鍋が見えます。
北からこちらへ傾いています。」
主はわたしに言われた。
北から災いが襲いかかる
この地に住む者すべてに。
北のすべての民とすべての国に
わたしは今、呼びかける、と主は言われる。
彼らはやって来て、エルサレムの門の前に
都をとりまく城壁と
ユダのすべての町に向かって
それぞれ王座を据える。
わたしは、わが民の甚だしい悪に対して
裁きを告げる。
彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき
手で造ったものの前にひれ伏した。
あなたは腰に帯を締め
立って、彼らに語れ
わたしが命じることをすべて。
彼らの前におののくな
わたし自身があなたを
彼らの前でおののかせることがないように。
わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて
堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として
ユダの王やその高官たち
その祭司や国の民に立ち向かわせる。
彼らはあなたに戦いを挑むが
勝つことはできない。
わたしがあなたと共にいて、救い出すと
主は言われた。
2026年2月2日
エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。 主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、 更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
主の言葉がわたしに臨んだ。
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から
あなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に
わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。」
わたしは言った。
「ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。
わたしは若者にすぎませんから。」
しかし、主はわたしに言われた。
「若者にすぎないと言ってはならない。
わたしがあなたを、だれのところへ
遣わそうとも、行って
わたしが命じることをすべて語れ。
彼らを恐れるな。
わたしがあなたと共にいて
必ず救い出す」と主は言われた。
主は手を伸ばして、わたしの口に触れ
主はわたしに言われた。
「見よ、わたしはあなたの口に
わたしの言葉を授ける。
見よ、今日、あなたに
諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
抜き、壊し、滅ぼし、破壊し
あるいは建て、植えるために。」
2026年2月1日

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

「正しさ」を超えて

それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 こう書いてあります。

「主は言われる。
『わたしは生きている。
すべてのひざはわたしの前にかがみ、
すべての舌が神をほめたたえる』と。」

それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
ローマの信徒への手紙14章10~23節

 

旭川星光伝道所・美馬牛福音伝道所
齋藤麻実 牧師

 

 皆さんは、良かれと思ってやったことが、なぜか相手を困らせてしまったり、逆に自分が親切をされて、ありがたいはずなのに心が重くなってしまった……というような経験はありませんか?
「自分は正しいことをしているはずなのに、どうしてうまくいかないんだろう」。そんな葛藤のヒントになる言葉が、聖書の中に書かれています。今日は、私が経験した「失敗談」も交えながら、本当の意味で「共に生きる」とはどういうことなのか、一緒に考えてみたいと思います。
 聖書の中に、パウロという人が書いた手紙があります。その中に、当時の教会の人間関係のトラブルについて触れている箇所があるのです。
 当時の人たちにとって、何を食べるか、どの日を大切にするか、というのはとても大きな問題でした。
 新しい価値観を受け入れて「何を食べても自由だ!」と振る舞う人。
 一方で、これまでの習慣を大切にして「特定のものは食べられない」「この日は特別だ」とこだわる人。
 パウロは、前者を「信仰が強い人」、後者を「信仰が弱い人」と呼びました。でも、これは「どっちが偉い」という意味ではありません。
 問題の本質は、自由な人が「そんな古い考えに縛られてるなんてダメだな」と相手を見下したり、逆に慎重な人が「あんな自由奔放なのは間違っている」と相手を裁いたてしまうことです。
 お互いに「自分の生き方が正しい」と信じているからこそ、衝突が生まれてしまう。これって、今を生きる私たちの日常でもよくあることだと思いませんか?
 私にも忘れられない経験があります。
 わたしの所属している教会では、毎日放課後に教会の礼拝堂を開放しています。そのため、毎日15時になると近所の子どもたちが遊びに来てくれています。数年前、事情があっておうちで満足にご飯が食べられない子が、教会に遊びに来ていました。その子は会うたびに痩せていき、いつもお腹を空かせていました。「この子が教会にいるときくらいは、お腹いっぱい食べさせてあげたい」……そう思った私は、お母さんに許可をもらって、その子が来るたびに食事を準備するようになりました。
 私はそれが「正しいこと」だと信じて疑いませんでした。その子のために祈り、一生懸命動いていました。
 でも、ずっと後になって、私は衝撃的な事実を知ることになります。
 そのお母さんは、実はこう思っていたのです。「どうしてこんな中途半端な時間に、お腹いっぱい食べさせるんだろう……」と。
 せっかくお母さんが準備した夕飯を、その子は食べなくなってしまった。お母さんは悲しく、不信感を抱いていたんです。でも、食べさせてもらっている立場だから、何も言えなかった。
 私は、その子のことは考えていたけれど、お母さんの気持ちを想像できていませんでした。「お腹を空かせている子を放置するなんて」という、世間一般の「正しさの物差し」で相手をジャッジしていたのです。
 私の「善意」は、お母さんにとっては、逃げ場のない「暴力」のようになってしまっていた。もし彼女が勇気を出して話してくれなければ、私はずっと「良いことをしている自分」に酔いしれていたかもしれません。
 聖書には「受けるよりは与える方が幸いである」という有名な言葉があります。誰かの役に立てることは、確かに喜びです。
 でも、一方で「受ける苦しみ」というのも、確かにあるのだと思うのです。
 いつも「与えられる側」に固定されてしまうと、人間関係が「対等の関係」ではなくなってしまいます。そこには目に見えない上下関係が生まれてしまうのです。
 片方が「助けてあげる強い人」、もう片方が「助けてもらう弱い人」。
 その間に「愛」ではなく「正しさ」だけが置かれたとき、私たちは知らず知らずのうちに相手を裁き、分断してしまいます。
 大切なのは、「何をあげるか」という目に見える形ではなく、相手がどんな背景を持って、どんな気持ちでそこにいるのかを「想像すること」ではないでしょうか。
 聖書の今日の一節に、こんな言葉があります。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」
 これはつまり、大切なのは「ルールを守ること」や「正しい行動をすること」そのものではなく、その先にある「平和」や「喜び」、つまり「良い関係」なのだということです。
 立場が違っても、考え方が違っても、お互いに「神様に作られた尊い一人ひとり」として認め合うこと。
 自分の「正しさ」を一度脇に置いて、「この人はどう感じているんだろう?」と寄り添うこと。
 そこにこそ、本当の意味で——聖書が言う「神の国」——があるのだと私は思います。
 人は一人では生きられません。だからこそ、神様は「もう一人の人間」を作られました。
 完璧な自分を目指すのではなく、お互いの弱さや背景を想像し合える、そんな温かい関係を大切にしていきたい。そう願っています。

 

 

 

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