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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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ペトロの手紙二1・1〜15

2025年2月3日

イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。
従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。 自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。

2025年2月2日
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしている。」
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
2025年2月1日

「石ころ」

なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ローマの信徒への手紙3章20節

阿倍野教会
山下壮起牧師

 

20252月、今月のメッセージを担当します、山下壮起です。現在、日本基督教団阿倍野教会で牧師をしています。

わたしは、アメリカ合衆国のジョージア州、アトランタにあるモアハウス・カレッジという大学でアフリカン・アメリカン研究という分野を専攻し、アメリカの黒人の歴史や文化を学びました。モアハウス・カレッジは、南北戦争後に奴隷制から解放された黒人男性の教育のために、1867年に建てられた大学です。そして、いまでも学生の99%は黒人で、アメリカの各地からいろいろな背景をもつ黒人の若者たちが学んでいます。

人権についてのプログラムが行われた南アフリカの大学の入り口

 わたしは同世代の黒人の若者たちと友人になりましたが、そのなかに同じアフリカン・アメリカン研究を専攻したボストン出身のアミールという友人がいます。大学3回生の夏休みに、わたしとアミールは南アフリカのダーバンという町で約1ヶ月を過ごしました。南アフリカとアメリカの大学で学ぶ学生を対象にした、人権について学ぶプログラムに参加するためです。

ダーバン空港

ダーバンの町

毎日いろんなテーマでディスカッションをするのですが、ある日のテーマは、「刑務所に入れられている人の人権は保障されるべきか?」というものでした。その議論のなかで、アメリカから参加した白人の学生が「刑が確定した囚人に人権を認める必要なんてない」と発言しました。それを聞いたアミールは、激しく怒って「なんでそんなこと言うんや!」と反論しました。それは彼のいとこや友人が刑務所に収監されていたからです。

日本だと親戚や友人が刑務所に入っているというのは、あまり身近なことではないかもしれません。でも、アメリカの黒人にとっては、とても身近な現実です。黒人はアメリカの全人口のわずか12%ですが、刑務所の人口では40%にもなっています。黒人の3人に1人が刑務所に入れられる経験をするというデータもあります。こうした状況を生み出しているのは、アメリカ社会でいまだに根強く残る人種差別です。警察が黒人に対して過剰な取り締まりを行い、ただそこにいるだけで職務質問をされ、少しでも抵抗しようものなら逮捕されてしまいます。また、同じ犯罪であっても、裁判では白人よりも黒人に重い刑が科されます。そのような構造的な差別によって、多くの黒人たちが苦しめられています。

アミールのいとこや友人も、こうしたアメリカの人種差別と刑務所システムの犠牲となって、刑務所に入れられていました。だからこそ、「囚人に人権を認める必要なんてない」という白人の学生の言葉に大きな怒りを覚えたわけです。南アフリカでの人権を学ぶプログラムでは、参加した学生の人種や育った環境によって考え方が全然違い、特に参加者の多くが白人の学生で、恵まれた環境で育ってきた人たちでした。そのため、アミールのような厳しい環境で育ってきた人の思いがなかなか理解されないことが日に日に浮き彫りになっていきました。

そのせいか、アミールもイライラがたまって、やるせない気持ちになっていたのが伝わってきました。そんなある日、一日のプログラムを終えて、近くの公園で缶ビールを飲みながら色んなことを話していると、いきなりアミールが大粒の涙を流して泣き出しました。そして、アミールは公園に落ちている石ころを指さして、こう言いました。「石ころはただそこに転がって、ただ黙ってそこにいて、他の石の悪口も言わず、他の石を支配しようともしない。何で人間は同じようにできないんだ。何で、石ころのようになれないんだ」。アミールは、思わず涙を流してしまったのを誤魔化すように、冗談めかして「これも神からの啓示かな」と言いました。ですが、アミールが涙を流しながら語ったこの言葉は、わたしにとって大切なものとして、まさに、神の啓示のようなものとして今もわたしの心に深く刻まれています。

アパルトヘイト時代に黒人の居住区と定められたエリアはタウンシップと呼ばれる。掘っ立て小屋が立ち並び、アパルトヘイトの生み出した貧困問題を生々しく伝えていた。

聖書には「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマ3:20)というパウロの言葉が記されています。ユダヤ教には律法という規範がありました。しかし、規範というものはそれを守ることが求められます。それゆえに、誰か律法に違反していないか、罪を犯していないかと、人が人を裁くことが起きていました。また、律法学者のように、それを解釈する立場にある人に都合よく用いられてしまう危うさがあります。なにより、パウロ自身が律法学者として、律法の名のもとにキリスト者を暴力的に取り締まっていました。

法律も同じ危うさがあります。法律は、それを作る力を持つ人に都合よく用いられてしまいます。アメリカでは、160年前まで奴隷制は合法でした。日本では、戦前まで女性に選挙権がない状態は合法でした。白人が黒人を、男性が女性を合法的に抑えつけるためです。また、法律があるから、その違反者を探して取り締まる口実として利用されてしまいます。警察は、法の執行の名のもとに、恣意的な取り締まりを行ってきました。その結果、日本では袴田巌さんや石川一雄さんのような冤罪が繰り返し生み出され、アメリカではアミールのいとこや友人のように、多くの黒人が一方的に警察に取り締まられ、重い刑罰を受けて苦しんでいます。

これらの法律の問題や限界を前にして、わたしは涙を流したアミールが語った言葉を時折想い起こします。法という規範によって拘束され、自由が奪われるこの世界の現実に対して、アミールの言葉は希望を伝えるものだからです。石ころのようになってそのままで他者を受け止める生き方によって、誰もが自由で解放された世界を実現できるはずだという希望です。

 まだまだ、この世界では、法の支配の名のもとに、たくさんの命が不当に取り締まられています。しかし、聖書は、律法や法律のような罪の自覚しか生じないものによってではなく、ほんとうに大切なことによって生きていく生き方を伝えています。それは、どんな命も神から祝福されていると信じて生きていく生き方です。神が人間を祝福するのは、支配から自由になり、解放された者として生きていくためです。神の祝福を受けて、わたしたちが命の貴さを信じて自由に生きようとすることから、変わっていくことができます。誰もが取り締まられることのない、どんな人でも自由に自分を生きられる、そんな世界が来るようにと願っています。

阿倍野教会外観

阿倍野教会礼拝堂


小さな命に寄り添う
――イエスの傷と痛みと死を覚える――

 19さて、夕方になると、週の初めの日だったのだが、弟子たちがいた場所は、ユダヤ人たちへの恐れのゆえに、その〔場所に複数ある〕扉は閉じられていたのだが、イエスが来て、その中央に立ち、そして彼らに言う、「あなたたちに平安があるように」。20aそして、このように言うと、彼は彼らに〔両方の〕手と脇を見せた。
(ヨハネによる福音書20章19−20節a[私訳])

 冒頭に引用したヨハネ福音書20章19−20節前半は復活したイエスが弟子たちに顕現する場面です(私訳の前半はたどたどしい日本語訳になっていますが、19節の前半には独立属格という構文が繰り返し使われていたりもしているため、なんとも歪なギリシャ語の文章なので、その風合いを出したつもりです)。弟子たちはイエスが十字架刑で処刑されたために、自分たちも捕まってしまうことを恐れて、隠れ家に身を潜めていたようです。すると、そこに突然イエスが顕れます。「あなたたちに平安があるように」という祈願は古代中近東世界の挨拶ですが、ここでは荘厳な雰囲気を醸し出しています。すると、イエスはそこで唐突に弟子たちに「〔両方の〕手と脇」を見せます。
 イエスの両手は十字架に磔にされたときに、釘で打ちつけられていましたので、傷跡が穴のように大きく空いていたはずです。そして、イエスの脇(脇腹)は十字架刑の最後に死を確認するため、あるいは死を確実にするために槍で突かれていましたので、イエスの脇(脇腹)にも槍で刺された傷跡がはっきりと残っていたのです。この物語に続くトマスの不信仰の物語(20章26−29節)からも分かるように、ヨハネ福音書は生々しい傷跡が残ったままの状態でイエスが復活したことを描写しています。
 このようにこの場面はきわめてグロテスクであり、映像にすると、直視できないような内容です。ある注解書はこの物語の意味をイエスの愛が専ら示されていると説明するのですが、到底頷くことのできない解釈です。いくら復活顕現物語とはいえ、イエスの手と脇の傷はイエスが処刑されたという悲惨な事実を証言しているからです。イエスの痛みや傷、そしてイエスの死を思うと、いくら想像してもその現実を知ることなどできないことを痛感させられるのですが、にもかかわらずイエスの傷跡を見せられたとしたら、どれだけ痛かったのか、どれだけ苦しかったのか、その死の恐怖に身震いするほかないと感じるのです。
 担当者が今月の聖書の言葉としてヨハネ福音書20章19−20節前半を選んだのは、他者の痛みや苦しみに無感覚になっている現代社会の現実を思い、煩悶しているからです。世界はいったいどこに向かって進んでいるのでしょうか。トランプのアメリカは新自由主義ともまた異なる新たな世界線に突入しようとしています。そのアメリカでは政権交代が起きたのですが、日本では与党が過半数を割っても政権交代が起きないというある種の新たな世界線に迷い込んでいます。双方に共通するのは、従来の思想による「左右の分断」ではなく、経済的な格差による――かつての階級闘争の再現でもある――「上下の分断」だと分析する専門家もいます。このような分析にも一理あるのでしょうが、問題の本質は古代から現代まで変わっていないとの思いを抱いています。それは「仮想の敵」を作って、現実に攻撃することによって、分断を作り出す社会の仕組みです。
 このような分断が世界中にはびこり、日本もその例外でないことは日々の政治や経済などの報道からもひしひしと伝わってくるのではないでしょうか。一見すると、このような分断が先鋭化しているように感じられもしますが、それはネット社会によってその現状が情報として否が応でも入り込んでくるようになったからです。
 また、現代人――とりわけ最近の若い世代――が他者の痛みに共感する力が失われたと指摘する声も聞かれるのですが、そうではないと思うのです。共感もまた分断されてしまっているために、そう感じてしまうのです。すなわち、現代のネットを賑わす政治家やコメンテーターなどが社会を「敵」と「身内」(味方)に分断してしまったことで、「敵」に共感する必要が皆無になっているにもかかわらず、「身内」には超過敏な反応を示しているからです。このような「敵」と「身内」(味方)に分断された社会では、「仮想の敵」の「生」(生命・生活・人生)がどうなろうと知ったことではないという現象が巻き起こっています。この現象を見ると分かるのですが、自分たちの「身内」を守るためには、本ギレや逆ギレも厭わないのです。「身内」が受けた「擦り傷」を「暴力」だと喚き立て、「仮想の敵」にミサイルを撃ち込むことは「正義」だからです。
 では、このような分断の仕組みによって誰が得をするのでしょうか。それは為政者であり、権力者です。そして、実際にそこで傷つき、痛み、苦しむのは力のない小さな命です。このような構図もイエスの時代と現代との間に何らの違いもありません。
 キリスト教ではイエスの傷、イエスの痛み、イエスの死を悼むことが大切にされてきたはずです。だとすれば、イエスが小さな命に寄り添ったように、小さな命の傷、小さな命の痛み、小さな命の死を悼み、小さな命に寄り添う日々を過ごせる時代が来ることも信じてもいいのではないでしょうか。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任 デザイン宗利淳一

兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
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