教師逝去
藤田房二(隠退教師)
24年11月22日逝去、92歳。栃木県生まれ。57年農村伝道神学校卒業、同年より越生、島村、串木野教会を牧会し、24年隠退。遺族は娘・藤田はつほさん。
大島 力(無任所教師)
24年12月9日逝去、71歳。東京都生まれ。81年東京神学大学大学院修了、同年より阿佐ヶ谷、石神井教会を牧会し、22年まで青山学院大学に務める。遺族は妻・大島一枝さん。
加藤久雄(隠退教師)
24年12月22日逝去、99歳。愛知県生まれ。56年東京神学大学大学院修了、同年より熱田教会、田原吉胡伝道所を牧会し、10年隠退。遺族は息・加藤渡さん。
正教師登録
村上有子(2024・11・25受按)
加藤 隆、菅根謙治(2024・12・2受按)
補教師登録
蓮沼 明(2024・12・15受允)
教師異動
富山二番町就(代)渡部信子
神の御前で真実に
雲然俊美
次の言葉は真実です。「私たちは、この方と共に死んだのならこの方と共に生きるようになる。耐え忍ぶならこの方と共に支配するようになる。私たちが否むならこの方も私たちを否まれる。私たちが真実でなくてもこの方は常に真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからである。」(テモテへの手紙二2・11〜13/聖書協会共同訳)
困難を耐え忍ぶ
主の年2025年の歩みが始まりました。私たちは、日々、能登半島地震等の災害によって労苦を担っている方たちを覚えて祈っております。その生活の再建と地域の復興の道のりが険しいことを思い、その地に住む方たちと、その地に立てられている教会の困難な歩みを覚えて祈っております。
また、長く続くウクライナやガザ地域等における戦闘の終結を心から願い、その嘆きや苦しみを覚えて、平和の実現を祈っております。
さらに、私たちは、福音宣教の困難さの中で苦闘している教会を覚えて祈っております。教会の活動の維持はもちろんのこと、その存続の困難さに直面している苦悩を覚えて祈っております。
そのような中で私たちは、「イエス・キリストを思い起こしなさい」(Ⅱテモテ2・8)とのみ言葉を聞きます。テモテへの手紙を記した伝道者は、「キリスト・イエスにある救いを永遠の栄光と共に得るため」(Ⅱテモテ2・10)、あらゆる困難を耐え忍んでおり、「耐え忍ぶならこの方(イエス・キリスト)と共に支配するようになる」(同2・12)と述べています。これは、今日、様々な困難の中で、うめきつつ耐え忍ぶ日々を過ごしているキリスト者とキリスト教会に向けて語られている言葉です。
キリストは常に真実
テモテへの手紙二の2章11節から13節に記されているみ言葉は、教会の信仰告白の言葉か、あるいは、賛美歌であったのではないかと言われます。
賛美歌であったとすれば、この手紙を書いた伝道者は、様々な困難に直面するたびに、何度もこの賛美歌を口ずさんだことと思います。そして、様々な困難によって福音宣教の働きが阻まれたり、一向に実りを見い出すことができない時に、「キリストの真実」に立ち帰り、慰めと力を与えられて立ち上がり、前進したことと思います。
キリストの真実は、主が私たちの罪の赦しと贖いのために十字架において死なれたお姿にはっきりと示されています。主は、十字架の死において、「ご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれ」(ヨハネ13・1)ました。
私たちの信仰の歩みは、このキリストの真実によって支えられています。私たち自身の能力や努力によって得る確かさによるものではありません。それゆえ、私たちは絶えずキリストの真実の確かさに立ち帰り、支えられて、新たな歩みを踏み出すことが必要です。
私たちの日々の歩みの課題や、教会活動の維持の困難さの中で、私たちは何よりも、このキリストの真実によって支えられていることを覚えなければなりません。キリストの真実により頼み、応答して、様々な困難な課題に直面しながらも、その現実を直視し、忍耐をもって前に進むのです。
神の御前に真実な教会
私たちは、自分自身が真実な者でないことを知っています。真実でありたいと願いつつも、そうできないでいるのです。「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているのです」(ローマ7・19)との嘆きは私たち自身の嘆きです。ですから、私たちの信仰は、神の御前にあって自分の真実を示すことではありません。キリストの真実により頼み、キリストの真実に応えて歩むということです。
教会も同じです。私たちは、神の栄光を現わす教会として歩みを続けることを願っています。あるいは、世のための教会として、この世の多くの課題を共に担う歩みを続けることを願っています。しかし、今日、多くの教会が、少人数で教会活動を進めることの困難さに直面しております。牧師招聘を決断できない教勢および財政力の低下に悩んでいます。教会の合併や牧師の兼務体制への移行の検討をしています。そのような中で、今こそ教会は、キリストの真実により頼む信仰に立ち帰ることが必要です。
昨年末、かつて大変お世話になった牧師が書かれた文章を読む機会がありました。そこに次のように書かれていました。「この教会は…(略)…会員数も決して多くはない。勿論これから量的に大教会になることも望ましいことである。しかしそれよりももっと望ましいことは神の前に真実な教会でありたいということである」(『天童教会百年史』の故櫻井重秀牧師の巻頭言より)。「神の前に真実な教会」であらんとすること、つまり、キリストの真実に支えられ、応えて歩むことこそがキリストの体なる教会の務めであるとのことを教えられた言葉でした。
とりなしの祈り
教会には多くの欠けや破れがあり、弱さを抱えています。しかし、教会はキリストの真実に支えられ、応えて歩み続けます。教会の務めは、「どんなに小教会であっても、この国の、この社会の良心であらんとすること」(同巻頭言より)です。
日本基督教団においては、各地に立てられている教会の多くが、その地域における唯一の教会です。教団はそのような教会の伝道の灯火を消さないために、伝道のネットワークや宣教協力の働きを進めて行く務めが与えられていることを思います。
昨年のクリスマスには、徐々にコロナ禍以前の教会活動を再開した教会が多かったのではないかと思います。私が33年兼牧している下浜教会では、コロナ禍以前のように、教会に皆が集まって祝会をもつことはしないで、牧師が会員宅に赴いて、クリスマス家庭礼拝をもちました。そうしたところ、普段教会に来ていない教会員の家族全員が出席し、クリスマスの恵みを喜び祝うことができました。そして、その家庭礼拝において、その地域に住んでいる方たちを覚えて、共にとりなしの祈りをささげることができました。
アブラハムの切なるとりなしにより、主なる神は、10人の正しい人がいるならその町を滅ぼさないと言われました(創世記18章)。教会は、その立てられている地に住む人々を覚えて、神さまの御前にあってとりなしの祈りをささげる務めを担っています。そのようにして、神の御前に真実なキリスト者、そして、教会として、この年の歩みを進めてまいりたいと思います。
(秋田桜・下浜教会牧師)
聖霊にとらえられて
芳賀よし子さん
クリスチャンの友人の誘いで、初めて石巻山城町教会の礼拝に出席したのは13歳の頃。その後上京し、お姉さんの誘いで銀座教会の礼拝や祈祷会、讃美歌練習会に出席するようになった。しばらくして、三井勇牧師より受洗を勧められた。神さまのことも信仰もよく分からなかったが、三井牧師は「受洗は卒業ではなく入学ですよ。これからみ言葉を学ぶことですよ」と微笑みながら優しく語りかけてくれた。この言葉に後押しされて、1954年のクリスマスに受洗した。
その後石巻に戻り、結婚を機に夫も信仰を与えられた。夫は病身で59歳の時に天に召された。24年間の結婚生活のうち23年間は闘病生活だった。夫の介護、子育て、仕事に明け暮れる毎日だったが、不思議と今はそのすべては神さまのご計画であり、神さまのなさることに無駄はないと思える。
東日本大震災の時には、自宅の1階が浸水し、食料も水もない中4日間一人で救助を待ち続けた。その間、眠れない夜を過ごしながら、神が創造し、支配されるこの世界に起こる苦難に対して「神さまあなたの御心はどこにあるのですか」と問うばかりであった。この時主イエスの憐れみを失いかけていた。しかし、聖霊が芳賀さんの心と耳を開いてくれた。不安の中でみ言葉が次々とささやいた。「主は与え、主は取り去る」、「わたしはあなたを見捨てない」。聖霊の働きを確信できたとき、雲が晴れたように思い煩いから解放された。いかなるときも主は聖霊を通して働いてくださり、共におられる。91歳となった今も、この信仰の確信に生きている。芳賀さんは、「今私には何も悩みがないのよ。信仰が与えられているって本当に素晴らしいね」と語ってくれる。この先も主に委ねて生きていく。
あれから30年。当時私は大阪・北摂地区にある茨木教会の担任教師2年目。最初の子が生まれてまだ2ヶ月。あの日、突然の強震に見舞われた。
夜明け前でもあり、瞬間何が起こったのか分からなかった。タンスが倒れるかと思って、片手でタンスを押さえながら、もう片方の手を、隣に寝ていた長女の脇について、揺れが収まるのを待った。階下では、玄関に置いてあった金属バットが大暴れして、もの凄い音を立てていた。大阪で大地震に遭うなど、全く想定外だったので混乱したが、何が起こったのか理解するのに時間はかからなかった。震災を巡る当時の教団の混乱に、若かった私は正直、絶望しかけた。
それから16年。東日本大震災の時は、教団の総務幹事。震災初期に仙台に入ってから、岩手から千葉までほとんどの被災地を訪ねたが、阪神・淡路大震災と全く違ったのは、被災地の途轍もない広さと、初めて経験するレベルの原発事故。最終的な処理のゴールも見えない。
そして能登半島地震から1年。心身と生活の傷の癒えないまま、未だ復興の道筋さえ見えてこない。
多くの人々が途方に暮れる思いで、何とか日常生活を建て上げている。そこに、途方に暮れても失望させない神の憐れみが現されることを信じる。(教団総会副議長 藤盛勇紀)
伝道推進室より応援した教会・伝道所
不思議な形で働く神様
黒石教会牧師 伊丹 秀子
黒石の町に最初に福音を伝えてくれたのは東奥義塾の学生たちでした。時は1878年。津軽藩の藩校だった東奥義塾で「新しい教え・キリストの福音」を聞いて信じた若き学生たちが驚きと共に黒石の町での伝道を開始したのでした。
しかし52年の間、黒石の町には「教会」が与えられませんでした。義塾の学生と共に弘前教会の牧師たちが熱心に伝道をしてくださり、町の歴史にさえ「公会堂でヤソの集会が行われ二百名もが集まった」と記録されたにもかかわらず、長い間、黒石の町には教会が与えられませんでした。
1930年。佐藤又男さんという一人のクリスチャンが「わぁが本家から分けてもらった土地を献げるハンで、ここサ教会を建てケ」と申し出てくださり、大工の相澤さんという方が弘前教会をモデルに最初の小さな教会を建ててくださいました。
しかし最初の会堂・大工町会堂が建った後、佐藤又男さんの御一家が次々と結核で天に召されてしまいました。また大工の相澤さんも戦争に駆り出され天に召されてしまいました。
戦争中、大工町会堂では日曜夜に外に灯りがもれないように黒布で窓を覆って礼拝が守られ続けました。この時、黒石教会の礼拝を助け導いてくださったのが聖愛中学高等学校の聖書教師・高島清子先生。ごく少数の参加者でしたが、戦争中も黒石教会は礼拝を守り続けました。
戦後、世の中にキリスト教ブームが起こった時、黒石教会でも「牧師招聘」の祈りが始まりました。経済的な問題からそれは困難な課題でしたが、それでも太田実先生や金井輝夫先生が黒石教会に定住してくださった短い期間、教会は地域の若い方々で賑わいました。
そして塚原啓一先生が赴任。お連れ合いが絵を教えるという形で生活を支え伝道してくださいました。次の菅原祐治先生の時代には多くの熱心な方々が教会に集い、少しばかりの混乱さえ起こるほどでした。
この混乱を治めてくださったのが日野長臣先生。お連れ合いがピアノを教えて家族の生活を支え、御夫婦で伝道してくださいました。日野先生の次に来てくださったのが真壁巌先生。近隣の浪岡伝道所と八甲田伝道所の兼牧をし、更に東奥義塾で教えながら伝道してくださいました。真壁先生が御病気で休職せざるをえなくなった時には、地域の教会の牧師たちが説教応援に来てくださり感謝でした。
1999年12月には塚原先生時代からの祈りだった会堂の移転新築が実現しました。感謝でした。会堂建築の翌年から毎年「年に一度のニュースレター」を多くの方に送ることができ感謝しています。
黒石教会は会員数が少なく常に経済的な弱さを抱えていました。しかし神様は不思議な形で働いてくださいます。10月半ばから突然、海外から黒石に働きに来ている方々が礼拝に集ってくださるようになり、本当に励まされています。主が常に共にいてくださることを感謝です。
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