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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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小さな命に寄り添う

2025年2月1日


小さな命に寄り添う
――イエスの傷と痛みと死を覚える――

 19さて、夕方になると、週の初めの日だったのだが、弟子たちがいた場所は、ユダヤ人たちへの恐れのゆえに、その〔場所に複数ある〕扉は閉じられていたのだが、イエスが来て、その中央に立ち、そして彼らに言う、「あなたたちに平安があるように」。20aそして、このように言うと、彼は彼らに〔両方の〕手と脇を見せた。
(ヨハネによる福音書20章19−20節a[私訳])

 冒頭に引用したヨハネ福音書20章19−20節前半は復活したイエスが弟子たちに顕現する場面です(私訳の前半はたどたどしい日本語訳になっていますが、19節の前半には独立属格という構文が繰り返し使われていたりもしているため、なんとも歪なギリシャ語の文章なので、その風合いを出したつもりです)。弟子たちはイエスが十字架刑で処刑されたために、自分たちも捕まってしまうことを恐れて、隠れ家に身を潜めていたようです。すると、そこに突然イエスが顕れます。「あなたたちに平安があるように」という祈願は古代中近東世界の挨拶ですが、ここでは荘厳な雰囲気を醸し出しています。すると、イエスはそこで唐突に弟子たちに「〔両方の〕手と脇」を見せます。
 イエスの両手は十字架に磔にされたときに、釘で打ちつけられていましたので、傷跡が穴のように大きく空いていたはずです。そして、イエスの脇(脇腹)は十字架刑の最後に死を確認するため、あるいは死を確実にするために槍で突かれていましたので、イエスの脇(脇腹)にも槍で刺された傷跡がはっきりと残っていたのです。この物語に続くトマスの不信仰の物語(20章26−29節)からも分かるように、ヨハネ福音書は生々しい傷跡が残ったままの状態でイエスが復活したことを描写しています。
 このようにこの場面はきわめてグロテスクであり、映像にすると、直視できないような内容です。ある注解書はこの物語の意味をイエスの愛が専ら示されていると説明するのですが、到底頷くことのできない解釈です。いくら復活顕現物語とはいえ、イエスの手と脇の傷はイエスが処刑されたという悲惨な事実を証言しているからです。イエスの痛みや傷、そしてイエスの死を思うと、いくら想像してもその現実を知ることなどできないことを痛感させられるのですが、にもかかわらずイエスの傷跡を見せられたとしたら、どれだけ痛かったのか、どれだけ苦しかったのか、その死の恐怖に身震いするほかないと感じるのです。
 担当者が今月の聖書の言葉としてヨハネ福音書20章19−20節前半を選んだのは、他者の痛みや苦しみに無感覚になっている現代社会の現実を思い、煩悶しているからです。世界はいったいどこに向かって進んでいるのでしょうか。トランプのアメリカは新自由主義ともまた異なる新たな世界線に突入しようとしています。そのアメリカでは政権交代が起きたのですが、日本では与党が過半数を割っても政権交代が起きないというある種の新たな世界線に迷い込んでいます。双方に共通するのは、従来の思想による「左右の分断」ではなく、経済的な格差による――かつての階級闘争の再現でもある――「上下の分断」だと分析する専門家もいます。このような分析にも一理あるのでしょうが、問題の本質は古代から現代まで変わっていないとの思いを抱いています。それは「仮想の敵」を作って、現実に攻撃することによって、分断を作り出す社会の仕組みです。
 このような分断が世界中にはびこり、日本もその例外でないことは日々の政治や経済などの報道からもひしひしと伝わってくるのではないでしょうか。一見すると、このような分断が先鋭化しているように感じられもしますが、それはネット社会によってその現状が情報として否が応でも入り込んでくるようになったからです。
 また、現代人――とりわけ最近の若い世代――が他者の痛みに共感する力が失われたと指摘する声も聞かれるのですが、そうではないと思うのです。共感もまた分断されてしまっているために、そう感じてしまうのです。すなわち、現代のネットを賑わす政治家やコメンテーターなどが社会を「敵」と「身内」(味方)に分断してしまったことで、「敵」に共感する必要が皆無になっているにもかかわらず、「身内」には超過敏な反応を示しているからです。このような「敵」と「身内」(味方)に分断された社会では、「仮想の敵」の「生」(生命・生活・人生)がどうなろうと知ったことではないという現象が巻き起こっています。この現象を見ると分かるのですが、自分たちの「身内」を守るためには、本ギレや逆ギレも厭わないのです。「身内」が受けた「擦り傷」を「暴力」だと喚き立て、「仮想の敵」にミサイルを撃ち込むことは「正義」だからです。
 では、このような分断の仕組みによって誰が得をするのでしょうか。それは為政者であり、権力者です。そして、実際にそこで傷つき、痛み、苦しむのは力のない小さな命です。このような構図もイエスの時代と現代との間に何らの違いもありません。
 キリスト教ではイエスの傷、イエスの痛み、イエスの死を悼むことが大切にされてきたはずです。だとすれば、イエスが小さな命に寄り添ったように、小さな命の傷、小さな命の痛み、小さな命の死を悼み、小さな命に寄り添う日々を過ごせる時代が来ることも信じてもいいのではないでしょうか。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任 デザイン宗利淳一

兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
2025年1月31日
しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
2025年1月30日

奥羽教区主催

今年2025年、東日本大震災と原発事故から14年を迎えます。震災から14 年が経ちましたが、いまも多くの方々が困難の中、深い悲しみの中におられます。東日本大震災と原発事故を覚えて、共に祈りを合わせたいと思います。 
 今年は秋田地区の秋田高陽教会を会場に礼拝をおささげします。礼拝は YouTubeでも配信いたします。会場に集えない皆さまは、ぜひ教会あるいはご自宅からご参加ください。

日時:2025年3月9日(日)14:30〜
会場:日本基督教団 秋田高陽教会
メッセージ:田中 真 牧師 
YouTube:https://www.youtube.com/watch?v=mDi2k4E_qvE

主催:日本基督教団 奥羽教区
〒020-0025 岩手県盛岡市大沢川原3丁目2-37 奥羽キリスト教センター内
電話 019(622)5770
ファクス 019(623)7975

東日本大震災14年を覚えての礼拝(PDF)


東北教区主催

 2025年3月11日で東日本大震災および東京電力福島第一原子力発電所事故発生から14年を迎えます。今年も東北教区ではこの日を覚えて記念礼拝を捧げます。
 主会場の他に、下記6か所において共に礼拝を捧げることができます。またご自宅などで個別にオンラインで参加もできます。それぞれの場で東日本大震災14年を覚えて、ご一緒に礼拝を捧げましょう。

日時:2025年3月11日(火)14:30~
会場: 白石教会 他6会場(詳細はポスターをご覧ください)
説教「ただ無力のなかで」齋藤篤牧師(仙台宮城野教会/東北教区センター主事
配信:https://www.facebook.com/tohoku.kyoku/
(チラシ内にQRコードあり)

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、
「食べたり飲んだりしようではないか。
どうせ明日は死ぬ身ではないか」
ということになります。思い違いをしてはいけない。
「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」
のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。
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