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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4828号】♦部落解放青年ゼミナール♦ 水平社創立宣言に改めて学ぶ

2015年10月3日

 8月18日~21日まで、大阪・高石教会にて第18回部落解放青年ゼミナールが行われた。ドキュメンタリー映画「ある精肉店のはなし」を鑑賞後、その舞台である貝塚の地を歩き、監督の纐纈あやさん、精肉店の店主・北出新司さんからお話を伺った。また、全国水平社創立宣言を学ぶことを通して、この宣言に込められた人々の思いと向き合うときを持った。

 水平社創立宣言には「ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ」とある。私たちが何気なく口にする食肉。そこから切り離された遠いところにあるものと向き合う機会が与えられた。「と畜場」=「大変」、「残酷」という意識が、それを請け負う、あるいは請け負わされている人々に、差別として向けられていたことを改めて思わされる。しかし、北出さん、纐纈さんは「と畜」は命と向き合うことであり、そこには汗とにおい、牛一頭に全身を傾ける人の姿があるという。私たちが、残酷さを押し付け、目を背けてきた事柄のなかに、生きるという熱があり、一人ひとりの物語があることを思わされる。

 水平社創立宣言は「吾が特殊部落民よ團決せよ」と呼びかける。自らを差別語である「特殊部落民」と呼び、また、「吾々がエタである事を誇り得る時が来た」と宣言する(「特殊部落民」「エタ」という言葉は被差別部落に対する歴史的社会的差別語で、現代では使わない言葉です)。

 宣言は、差別を受けていない人間が上から被差別民を助け、「普通」の人間に同化させ、部落差別をなくそうとしていく「融和運動」に否を唱えている。融和運動の目指した「普通」とは、彼らにとってはアイデンティティを消し去ることであった。求めるのは、人間が平等で同質であることを確認することではなくて、「エタ」であっても差別されないことなのだ。だからこそ、「『穢多』ではなくて『エタ』」であると言う。

 差別はいまだなくなっていない。私たちの解放運動もいまだ終わらない。しかし、北出さんは「差別はなくなります」とはっきり宣言してくださった。私たちが一人ひとりの物語と出会い、いのちと向き合い続けていく限りきっとそこに光はある。
(齋藤 開報/第18回部落解放青年ゼミナール実行委員長)

 教師検定委員会は、おもに、春と秋に行われる教師検定試験(補教師試験および正教師試験)を担当しています。

 委員長、書記を含めた7名の委員が、提出試験、筆記試験の問題を作成、出題し、その採点、また面接試験を行っています。そして、他教派から、私たちの教団に転入を希望する教師も、教師検定委員会がその審査を行っています。またその他にも、教師検定規則第3条6号受験者(いわゆる「Cコース受験者」)の認定面接など、検定試験に関わる諸々のことを担当しています。
 
近年、毎回の教師検定試験には、80名近い受験者が与えられています。この人数には、第3条6号受験者(いわゆる「Cコース受験者」)などの継続の受験者も含まれます。

 それらはすべて、主が教師として召してくださった一人一人であり、委員会もそのことを毎回、畏れをもって受け止め、厳粛に試験を実施しています。

 委員は、年2回、ひと月にわたる提出試験の採点、また3日間にわたる筆記試験、面接試験の試験監督と、大変な労を担っていますが、主が教師を召してくださるその現場に立ち会うことが許されている幸いを味わっています。

 主がこれからも、私たちの教団に教師を召し、与え続けてくださることをお祈りください。また、その祈りの隅に、私たち教師検定委員会の働きのことも加えていただければ、これほど嬉しいことはありません。(教師検定委員長)

野田五三郎氏(無任所教師)
 14年10月14日逝去、88歳。東京都生まれ。64年青山学院大学神学部卒業。66年より亀戸、浅草北部教会を牧会。
 遺族は妹・岩瀬久子さん。

 
前田豊實氏(隠退教師)
 15年8月31日逝去、89歳。兵庫県生まれ。56年関東学院基督教研究所卒業。57年より城崎、姫路、龍野教会を経て、01年に隠退。
 遺族は妻・前田和子さん。

 Cornelia Judson・・・この女性を、松山の人は親しみを込めて「ジャジソン先生」と呼ぶ。

 コーネリア・ジャジソン宣教師は、1860年10月20日、アメリカ、コネチカット州ストラッドフォードで生まれた。翌年、ストラッドフォード第一組合教会で幼児洗礼を受け、信仰深い家庭で育ち、やがてこの教会から派遣される最初の宣教師になるのだ。

 彼女の転機は13歳の時。彼女はひどい肺炎を患った。両親は寝食を忘れて看病した。死と直面した彼女 は、罪のゆるしを神に願い、神のために働き、多くの人のために奉仕することを誓う。その祈りが聞かれ、奇跡的に回復した彼女は、熱心に勉強し、大学に進む。そんな学生時代に、外国での宣教活動について、特にアジア諸国は宣教師を必要としていることを知った。彼女の心に13歳の時の祈りがよみがえり、宣教師として自分自身を献げることを決心した。

 大学卒業後、彼女は 外国婦人宣教師団に自分の名前を登録し、1887年、日本に向かって旅立った。最初の任地は新潟にあった新潟女学校だった。しかし、同僚の宣教師が病死するなど、新潟の冬の寒さ、厳しさに耐える自信を失っていた。そんなとき、設立されて間もない松山女学校(現在の松山東雲中学・ 高等学校)のために、女性宣教師を求めていることを知り、1890年7月、彼女は松山に転出することになった。松山に着くと、松山女学校の母体である松山組合基督教会(現在の日本基督教団松山教会)に出席した。

 ジャジソンは、自宅から松山女学校まで歩いて通勤した。開校時間であるはずなのに、学校に行かずに道ばたで遊ぶ子どもたちや、子守や掃除をしている子どもたちの姿を見、すぐに貧しさのために学校に行けないことを知る。彼女はそんな子どもたちが学べる場所が与えられるようにと祈り、不就学児が夜間を利用して学べる施設をつくる決心をした。その思いを松山教会の牧師であり、 松山女学校の校長でもあった二宮邦次郎牧師に話すと、その必要性に理解を示し、協力を約束した。彼は多忙であったため、教会の3人の青年をジャジソンに紹介した。その中の一人が、後に讃美歌「山路こえて」を作詞した西村清雄(すがお)である。

 3人は、教師の資格を持っていないので報酬をもらわないこと、その代わりに英語を教えてもらうことを条件として提示し、ジャジソンは大喜びで早速開校のための準備に取りかかった。校舎はジャジソンの2階建ての家を使うことになった。2階は生活のための部屋と英語教室、1階を教室として、女学校の古い机や椅子、黒板を運び込んだ。

 1891年1月14日午後7時、25人の子どもたちが集まり、開校式が行われた。四国で最初のキリスト教教育による夜学校が誕生したのだ。3人の青年たちは無報酬で働いたが、学校の経営は思わしくなく、その後も何度も廃校論が起こったが、ジャジソンは有給の教師を迎え、新たに校舎も購入しようと準備を進めた。同年秋には校舎を購入、100名を超える子どもたちが集まり、彼女は不就学児童教育の使命感を強くした。

 翌年、西村清雄が初代校長として就任。正式な教育施設としての認可を求めるため、早急に校舎の建設が必要になった。彼女は毎日、パンの他に野菜と卵を取り合わせた粗食をとり、衣服も新調することなく、慎ましい生活に耐え、土地の購入と新校舎の建築を実現した。その後も、校主としてジャジソンは私財を投じて、夜学校の教育の発展のために心を砕いていた。経営の費用不足を補うために、毎年多額の支出をして補っていた。

 宣教師の定年を迎えて帰米した後、持病のリューマチ、さらには心身の疲れからか心臓も悪くなり、医者からは静養するよう指導されている。しかし、体調が良くなると、夜学校の支援をしてくれた教会や友人を訪問したり、さらなる支援を依頼したりしている。

 ジャジソンは、松山の人々に向けて長い手紙を書いている。「神がわたしに翼を与えてくれるなら、すぐに飛んでいきたい。しかしわたしは、足が不自由になり、歩いて日本に行くことも出来ない。数年後にはこの不自由な体から解放されて、みなさんとの間を自由に行き来する楽な体になるだろう」。

 その後、80歳近い年齢で乳がん、さらに転移した胃がんの手術を行っている。その頃、渡米していた教え子にこんな言葉を残している。「わたしのために祈ってくれるなら、わたしが長生きするように祈ってはいけない。わたしがこの世を去れば、この家を売ってそのお金を松山夜間中学の増築費に送ることが出来るのだから」。

 1939年9月17日、ジャジソンはお気に入りの留め袖を着せてもらい、静かに天に召された。ジャジソンは、全財産をアメリカン・ボードに委託し、遺言状には自分の全財産を松山夜間中学(現在の松山城南高等学校)の基本財産とし、その利子を毎年送金する手続きを取るように記していた。今もその果実は、本校に送金されている。

 生涯にわたって彼女は多くのものを与え、夜学校の教育のために尽くしたのだ。彼女が愛した聖書の言葉の一つが、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)というイエスの言葉だと伝えられている。ジャジソン自身がその言葉を生きた方であったことを、わたしたちは知ることができる。

 ジャジソン宣教師の生き様を通して、わたしたちは、聖書の言葉は読むもの、聞くものではなく、その言葉を生きるものであることを学ぶことが出来るのだ。(Kyodan Newsletterより)

 初めて教会のことを知ったのは、中学生の時。学校から課せられた教会レポートのために教会へと足を踏み入れた。当時は悩む毎日であったが、罪を取り除いてくださるのがキリストだと知り、嬉しくなった。

 その時既に受洗の思いも与えられ、高校生の時にはキリスト教学校の教師になることを考えるほどだったが、親との相談の結果、20歳まで待つことになった。神から与えられた喜びは変えられることがなく、音楽大学在学中に受洗。大学卒業後は念願のキリスト教学校の音楽の教師として務めた。

 ただし、高校からの念願であった教師の職に就きながら、日増しにもっと神様のことを伝えたいとの思いは強くなり、東京神学大学に入学。在学中に教会の青年会で知り合った夫と結婚。子どもが与えられたことなどから、献身の志はありながらも、大学院での学びの中断を迫られた。現在は3児の母である。

 このような歩みの中でも神の御業は測り知れない。今度は夫に献身の思いが与えられた。今は夫が神学生である。ただ、それで自分の献身への思いが満足したわけではない。今の願いは、中断している学びに復帰し、夫と共に伝道者として立つ日が与えられること。

 自分の歩みを振り返ってみても一々説明や理屈通りにはいかないと思う。これからもそうなのかもしれない。

 ただ、ふと自分の歩みのことを思い巡らすうちに、刺繍の模様が浮かぶようになった。刺繍の裏側は色々な糸がからみあっている。お世辞にもきれいとは言えない。けれども、ひっくり返して表から見ると美しい模様が仕上がっている。自分の歩みは刺繍の裏側のようなものかもしれない。今は説明がつかないような歩みであっても、いつの日か、刺繍の裏側がひっくり返されて、素晴らしい神の御業を見ることになる。そのことを信じて、子育てをしながら、神の時を待っている。

神奈川県生まれ。橋本教会員。

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