ローマの信徒への手紙8章18〜25節
芳賀 力
生に疲れた人々
5人の男が肩を落として長いすに座っています。修道服のようなものを着て、目はうつろに地面を見つめ、祈るために組まれたはずの両手には力がなく、もう何をしても無駄だとすっかり観念しているかのようです。まん中の男は骨と皮ばかりの上半身をさらけ出し、手を両側にだらりと垂らして、もう祈ることすら諦めてしまったようです。絵につけられた名前は「生に疲れた人々」。スイスの画家フェルディナンド・ホドラーの作品です。この風変わりな絵は、精も根も尽き果てた時の人間の様子を見事に表現しています。自分の力ではもうどうしようもない現実をつきつけられて、絶望するほかない人間の姿です。いったいどうやって立ち上がればよいというのでしょう。
「被造物は虚無に服している」(ローマ8・20)。そう使徒パウロは言います。すべての被造物がその中で共にうめいているのですが、その虚無の力と「滅びへの隷属」(8・21)を一番敏感に感じ取っているのが、被造物の中でもとりわけ人間という存在でしょう。そのうめきを旧約の詩人は嘆きの詩編につむぎ、画家は「生に疲れた人々」を描き、音楽家はレクイエムを奏でます。生の疲れはあまりにも重いので、自分では取り除くことができません。
産みの苦しみ
しかし使徒は言います。それは「産みの苦しみ」でもあるのだと。今は虚無に服しているように見えたとしても、この被造世界のただ中で、すでに救いの歴史が始まっていることを、使徒は知っているのです。滅びの歴史のただ中に神が来てくださり、イエス・キリストにおいてその元凶である罪の刃を抜き去り、罪と死の法則に代わって「命をもたらす霊の法則」(8・2)を樹立してくださったからです。この霊の法則に私たちを与らせる方こそ、聖霊なる神にほかなりません。
神の霊は生に疲れた人々を立ち上がらせ、再び生かすことを可能にする唯一の力です。それは、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」(8・11)であるので、その神の霊が私たちに臨む時、生きる気力を失って死んだも同然の「生に疲れた人々」をも生き返らせる力を持っているのです。「キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っている霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(8・11)。
そのことを知るなら、うめきは希望に変わり始めます。それは、もはやなす術のない絶望のうめきではなく、滅びへの隷属から解放されることを待ち望む希望のうめきに変わります。「霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(8・23)。それは目に見える表面的な希望ではありません。滅びの歴史のただ中で、実はすでに始められ、今も進行中である救いの歴史を見ることのできる、信仰に基づく希望です。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」。
とはいえ、救いの歴史を見る希望は空手形の希望ではありません。すでに来られ、十字架を通って勝利した方の中に、その確かな土台を持つ希望です。そして「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(8・24)。
霊の初穂をいただいた者たち
使徒はそのような信仰に基づく希望に目覚めた人々のことを、「霊の初穂をいただいた者」と呼んでいます。私たちは被造物の中にあって、霊の初穂をいただいた者たちなのです。霊の初穂をいただいた者たちは、絶望の中に希望を、疲れの中に癒しを、滅びの中に救いを見る信仰の洞察へと最初に導かれている者たちです。いや、そのように希望を、癒しを、そして救いを経験することができるようにと、自分の力には絶望して、神の霊を祈り求めるようにと促されている者たちなのです。
そのような霊の注ぎを受けた時、そこに世の集団とは決定的に異なる「教会」が誕生しました。教会はペンテコステ(五旬祭)の日に霊の初穂をいただいた者たちの群れとして出発しました。だからそこで捧げられる祈りと讃美は、全被造物と共に世界の贖いを待ち望む希望のうめきです。
私たちの礼拝は果たしてどこまで希望のうめきになっていることでしょうか。生に疲れた人々を立ち上がらせる聖霊を、憧れるようにして呼び求める礼拝になっているでしょうか。この憧れを知るが故に、何と使徒は、現在の苦しみなど物の数にも入らないと言い切ります。それは「将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(8・18)と言うのです。
来たれ、聖霊よ
「ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」(イザヤ32・15~17)。
上からの霊が注がれることで、荒れ野は園に生まれ変わります。荒ぶる心は静められ、愛のない心も神の愛で潤い、再び愛することのできる人間に生まれ変わります。「この息子は、死んでいたのに生き返り」(ルカ15・24)という放蕩息子のたとえ話に起こったことが現実のものとなります。
そのようにして、もし私たちが死んでいたのに生き返った「霊の初穂」であるならば、次の「穂」となるべき人々にこの福音を伝えるということが私たちの使命(ミッション)になります。最初のペンテコステが教会の誕生であるとすれば、毎年繰り返されるペンテコステの祝祭は、教会の仕え人が誕生する日であるはずです。生に疲れた人々に再び生きる勇気を届ける働き人が、この世界には何としても必要です。そうでなければ、世界はただ望みなくうめき声を上げるだけの、<RUBY CHAR="阿","あ"><RUBY CHAR="鼻","び"><RUBY CHAR="叫喚","きょうかん">の世界になってしまうことでしょう。
「来たれ、創造主なる聖霊よ」。これが古代教会の礼拝で捧げられた祈りでした。この年ペンテコステを迎え、全国の諸教会がこぞって創造主なる聖霊を呼び求める礼拝を捧げ、世界に希望の種を蒔く伝道者が続々と興されるように、切に望みます。どうかそのためにぜひ祈っていただきたいと思います。
(東京神学大学学長)