伝道と伝道協力、共通理解と協働を求めて
六本木にほど近い鳥居坂教会を会場に、宣教方策会議が開催された。張田眞牧師によれば、六本木は最先端で高級イメージの都市再開発地域、経済成長期に発展した朝まで続く喧噪地域、そこは人種の坩堝、昔の良き時代を偲ばせる緑の残る教育・文化ゾーン、それらが織りなす光と闇とが交差する街。この地で、伝道の業に派遣されることの意味が問われ、学びと共に、盛んな議論が交わされた。
主の証し人として地の果てまで 開会礼拝、来賓挨拶、主催者挨拶
2011年度宣教方策会議が3月5~6日、鳥居坂教会を会場に、「伝道と伝道協力、共通理解と協働を求めて」の主題のもとに行われた。開会時で85名の出席があった。
開会礼拝で、石橋秀雄教団議長はマタイによる福音書27章61節より「ともに座る」と題して説教、会議主題のもと、教団の伝道協力における一致と再建の進路を示した。主旨は次の通り。
第37回教団総会期は伝道する教団の再建、伝道が大きな課題である。聖霊が降ると力を受けて、使徒たちは主の証し人として地の果てまで福音を宣べ伝えるため、協力して共に働いた。
東日本大震災被災地域・被災教会の痛みを共有する日本基督教団の使命もまた伝道である。神の国の福音が地の果てにまで宣べ伝えられるため、被災諸教会・牧師館の再建に伴い、伝道の共通理解と伝道協力における一致と再建が大きな課題である。そのために必要なことはただ一つ。被災の痛みのある方々と主の前に共に座ること。墓で横たわっている主イエスの御体があるゆえに、マグダラのマリアともう一人のマリアは墓の前で共に座っていた。ともすれば絶望に捉えられてしまう時に、主の前に共に座ることが許されている。そこで大いなる主のわざと出会う。罪と死の支配を打ち破り復活なさったキリスト。主との出会いの出来事を通して、死の墓は絶望から喜びの場所に変えられる。復活の主と出会った二人のマリアは、墓を背にして、絶望を背にして、喜びを伝えるため、急いで走って行った。私たち日本基督教団もまた、主のもとに共に座ることから、伝道する教会、伝道者派遣へと道が示されてゆく。
来賓挨拶で、在日大韓基督教会総幹事・洪性完(ホンソンワン)牧師は、同教会で宣教協力会議を持つことの困難さについて、教会の内情を赤裸々に語った。
また、日本基督教団との伝道協力への期待を次のように表わした。
東日本大震災により関東地方会の8つの教会が被害を受け、隣人の痛みを共有している。日本における伝道の意味は何であるのかを「思い起こし合う」ことを願っていたが、未だ実現していない。力を合わせて伝道に邁進していかなくてはならない時なのに、それぞれの諸教会の悩み、分裂が続いている。我々はどこを向いているのか。悩めることを、これからの伝道に活かしてゆくため、主によって展望が示されることを願いつつ、宣教協力関係を結んでいる日本基督教団の熱意に勇気づけられた者として伝道協力してゆきたい。
主催者挨拶で、張田眞宣教委員長は、在日大韓基督教会と宣教協力を結び、それを更に良い協力となすために準備をしてゆくと述べた。
また宣教方策会議では、宣教と伝道理解の一致が難しい現実を踏まえた上で、伝道しなくてはという思いの高まりを共有することを願い、伝道とは何か、如何に伝道の協力ができるか、主題講演Ⅰ、Ⅱを通して、共に祈りながら進めたいと語った。
(松本のぞみ報)
「伝道とは何か」の主題で 講演Ⅰ、パネルディスカッション
1日目、午後3時30分から主題講演Ⅰが、「伝道とは何か」と題して、神代真砂実氏(東京神学大学教授)によって行われた。
講演は、「伝道」と「宣教」の言葉の定義から始まった。「伝道」とは「イエス・キリストの十字架と復活を通して起こった罪からの救いの知らせである福音を宣べ伝えること」であり、「宣教」は「伝道、および福音によって生きる者の『愛のわざ』を通してなされる『証し』から成る、福音を宣べ伝える働き」である。伝道と宣教は対立するものではなく、伝道に愛の業を加えた、より広い概念が宣教であると《宣教》を定義した。
続いて、「なぜ、伝道しなければならないのか」との問いに対して、福音の普遍性が上げられた。福音は天地万物の造り主である唯一の神に由来しており、全ての人のための救いの知らせである。現在は、他宗教の「神々」との並存状況にあるが、この状況は、終末における普遍的礼拝が成就する時には克服されることに希望を持って伝道し続けるのである。この伝道は、神の働きと導きの下、教会が福音を宣べ伝えるために建てられていることによって可能となる。
また、福音は、信仰と共に悔い改めを引き起こすものであると指摘した。人間には、信仰に逆らう罪がある故、信仰には、悔い改めが不可欠であり、それ故、福音には躓きがある。また、罪との関連で、私たちが、世界を「公的領域」と「私的領域」に峻別する二元論的思惟の影響の下、信仰を私的領域の事柄としてのみ受け止め、福音を個人主義的に変質させ、伝道を妨げている事態が指摘された。
更には、福音の普遍性は「いつでも、どこでも、誰にでも」当て嵌まるということであるから、信仰の正統性を意味し、それゆえに、教会の公同性に結びつくのであると説明した。
最後に、日本基督教団の合同教会としての性質が教会の公同性にあることに触れつつ、教会の公同性が、伝道を基礎づける福音の普遍性と結びついている以上、公同的であろうとする教団が「伝道に熱くなる」ことは必然的であると主張した。
講演を受けて、神代氏を含め、筧牧人牧師(伊予長浜教会)、鈴木功男氏(目白教会員)、張田眞牧師(鳥居坂教会)、計4名のパネラーが立ち、ディスカッションが行われた。
筧牧師は、地方においては特に、信徒の生きざまが即ち伝道であることに触れ、教師が信徒を福音の喜びに生かす御言葉を語っているか問われていると述べた。また、福音の躓きを受け止めるのであれば、必ずしも伝道は数に結びつかないと主張した。
鈴木氏は、日本基督教団の教勢の低下について触れつつ、教団は、カトリックと比べると、幼児洗礼者の数、求道者の数が、極端に少ないことを指摘し、信仰の継承の大切さを語った。この点につき、神代氏は、幼児洗礼が少ない理由に、旧教派的背景、バルト神学の影響、幼児洗礼を授ける際、教会の責任を明確にしていない点等を上げた。
張田牧師は、日本の教会において福音が狭いものとして捉えられて来たこと、神・隣人との関係の回復と言われる時、関係性が個人主義的な範囲の中で捉えられる傾きがあったことを受け止めつつ、罪の赦しという言葉からではなく、神の国の到来という点から福音、伝道を語る可能性を指摘した。また、宣教委員会が、話し合いのためのたたき台として用意した、「神の国」という切り口から、伝道とは何かを描く伝道の素描を紹介した。伝道とは何かを語る際に多様な切り口があり、定義することが簡単ではないことを受け止めると共に、この主題と向き合い続けていかなけらばならないと述べた。
(嶋田恵悟報)