【4745号】イースターメッセージ 起き上がりなさい

横たわる人々

エルサレムというのは都です。王宮があり、また神を礼拝する神殿がありました。大きな祭りのときにはユダヤ各地から、また世界中に離散しているユダヤ人たちが集まって来ました。イエスも(弟子たちと共に)そのときエルサレムに上られたと記されています。
城壁のめぐらされた街ですから、出入りするいくつかの門がありました。その中の一つ、羊の門と呼ばれる門のかたわらにベトザタという池がありました。
そこに大勢の病気の人が横たわっていました。「横たわっていた」(ヨハネ5・3)というのはむろん事実を言っているわけですが、同時に、そこにいる人々の生きざまを表現している、とも言えるのであります。ぐったりと横たわっていた、というような姿であります。気力を失なっている様子です。
なぜそうした病人がそこに横たわっていたのか。一つの理由は、おそらく、都に来る人々の施しを受けるためであったでしょう。それによって命をつないでいました。
もう一つの理由は、ベトザタの池の水が湧き出したとき、新鮮な水に体を浸した者の病気が癒やされると信じられていました。

苦しみのそばに立ちどまる

さて、ここに38年病気で苦しんでいる人がいました。イエスはその人を見た、というのであります。「その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って」と書かれています。「横たわっているのを見」というのはさきほど申し上げました、ぐったりとした有様を見た、という意味も含まれていると思います。
ですから、イエスが「見」たというのはただ眺めたというのではないのです。山浦玄嗣訳「ガリラヤのイェシュー」ではこう訳されています「目をとめなさった」。「目をとめなさった」ということは即ち、立どまった、ということであります。
イエスが人を見る、ということはそういうことです。人の苦しみのそばに立どまる。同じ場所に身を置く。
「また、もう長い間病気であるのを知って」。「見」たという言葉に「知っ」たという言葉が付け加えられています。原語のギリシャ語では、表面的に知るということよりも深く知る・理解すると読みとることもできます。病む人の病いをその内面まで深く知るのです。苦しみ痛みまで理解するのです。

人の痛みを引き受ける

わたしたちも人を見ます。すこし見ただけでだいたいのことはわかると思うのです。その表情から、ちょっとしたしぐさから人の性格を見抜く、人の欠点や弱さを見抜く、そういう能力、するどい観察眼はたいていの人がもっています。つまり採点する能力です。あの人間はここがよくてここが悪い。あれはできるがこれはできないだろう。分析するのです。
救い主イエスはそういうふうに人を知るのではありません。人の弱さや病いを見られますが、その弱さや病いに共感されるのです。共感する、というのはそれを自分の痛みとして引き受けるということであります。
自分の子どものことをとやかく言われたら親は子どもの前にとび出してきてかばいますね。子どもの失敗や恥を自分のものとしてかばいます。
それに似ています。イエス・キリストは人の弱さ病いを自分の痛みのように引き受けるのです。そして悩み、苦しみ、恥を負う。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。…彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった…」
(イザヤ53・3-4)

わたしという存在を担って

信仰とは神を知ることであります。しかしもっと正しく言えば、神に知られることであります。
「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」。
(ガラテヤ4・9)
神に知られる、それは点検されるとか採点されることではありません。わたしたちの弱さや病いを知り共感してくださる。御自身の痛みとして担ってくださることです。救われているということ、神に知られているということは、そういうことです。
わたしたちは人に知られることを恐れます。なにもかも知られたらやっていけなくなると思います。しかし、神に知っていただいているということがわたしたちの大きな安らぎです。喜びです。
人から何と言われようとどんな批判を受けようと、神はわたしたちを、だれよりも深く知っていてくださり、このわたしという存在を担っていてくださいます。それを知ることが信仰なのです。ムリをしたり背のびをしたり、そんなことをしなくていいのです。
イエスは38年間病気で横たわっている人に問いました。「良くなりたいか」。奇妙な質問です。良くなりたいに決まっていると思います。しかし、長く苦しみ悩んだ人は「良くなりたい」とは言わないのです。
病人は答えました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(ヨハネ5・7)。親切な人はいません。みんな自分のことしか考えていないのです。彼は胸の中にためていた不平不満、うらみつらみを吐き出すのです。38年病気した中で人間の正体が見えたと思ったのです。

起き上がりなさい!

その男に、イエスは言われました。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(ヨハネ5・8)。
人が冷たいだの世の中がどうだの、みんなエゴイストだの、状況に負けているのです。現実に負けている。
「起き上がりなさい」、自分の足で歩きなさい、と主イエスは言われます。わたしがここにいるから、君のすべてを担う復活のわたしが君のそばに来ているから、「起き上がりなさい」。
起き上がることができるから。わたしと一緒に君は歩くことができる。君にはその力があるというのではなく、わたしが生きるから君も生きられるのだ、そう言われているのです。
「床を担いで歩きだした」。現実に負けて横たわっていた人、床に伏せっていた人が床を担いで歩いたのです。現実に打ちのめされていた人が、現実の中を生き始めたのです。
がんばって力をふりしぼって歩け、と言われるのではありません。わたしがここにいるから、あなたを担う復活の主があなたと共にいるから、一緒に歩くから。
起き上がりなさい!  (小島誠志 久万教会牧師)

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