部落解放劇の関西公演は京都(8月21日、草津教会、94名)と大阪(同28日、東梅田教会、30名)の二公演おこなわれた。教団総会での東京公演とはキャスト、脚本の一部に変更があったが、教会の中で一般的に起こりうる部落差別を題材とした内容の本筋は変わらない。
一人の青年が牧師に自分は部落の出身だと打ち明ける場面から物語は始まる。青年は、出身によらず、ただ、自分を自分として受け入れてほしかった。しかし牧師は、部落差別に対する知識のなさから青年の気持ちや不安を理解することができない。自分の思いが理解されないことに失望した青年は教会から遠のいてしまう。牧師は、青年が教会に来ないのは本人の問題だと主張するが、ある役員は牧師が青年を受け入れず排除したのであって、それは差別だと指摘する。
牧師にとっては「この程度のこと」かもしれない。しかし、自分の存在が受け入れられない孤独や疎外感は、体験したものにしかわからない。大切なのは寄り添い、理解しようという努力だ。
青年が礼拝に来られないことが自分の責任であると認められない牧師は、青年に寄り添うどころか教会規則に則って事柄に決着をつけようとする。教会規則による結論にも神の御心が働いていると言う牧師は、神の御心を問う前に規則に頼っている自分に気づかない。
牧師にとって幸いだったのは、牧師の間違いを指摘する信徒が役員の中にいたことだろう。信徒達の自発的な聖書の学びと排除された人に寄り添う心によって、牧師も青年も切り捨てない道を教会は選択する。規則に照らせば事柄をうやむやにした格好だが、その決断の先には確かな希望があると感じさせ、劇は終わる。
そこに差別がある、と気づくには痛みや苦しみに対する敏感な感覚が必要だ。自分が差別をしてしまったと受け入れるには大きな勇気が必要だ。それらは容易に養えるものではないだろう。自分が、神の前に間違いを犯し続ける弱い人間であるという自覚をもって日々を歩まねばならないと思う。
(岡本拓也報)