大木英夫氏(聖学院大学大学院長)による特別講演が2日目午後に行なわれた。2時間のプログラムは、1時間強を講演に、残りを質問、意見に答えることに用いられた。
大木氏の故郷は、今、「フクシマ」と呼ばれる。会津・喜多方、小学生のとき川越しに写生した教会堂に、氏が初めて入った経験を語ることから講演は始められた。陸軍幼年学校生として敗戦を迎え強烈な虚無の中で、氏は初めて教会の門をくぐり賀川伝道に触れた。これは彼岸にあった教会、かつては眺め写生する対象だった教会に自身が引き入れられることで、後に知ることになる、J・ウェスレーのアルダスゲートでの心燃える経験と同質のものであった、と言う。
講演本論は、大震災1ヶ月後に東洋英和女学院教職員研修会で行われた講演(4月23日付『キリスト新聞』講演要旨掲載)と、新報4727号(11年7月16日発行)巻頭メッセージを骨子とし、未曾有の危機の中で迫りを受けた「神に迫られた改革」、土曜日「墓の中に横たわるキリスト」、彼岸と此岸を橋渡し、歴史を貫く「心柱」としてのキリストといった鍵となる言葉で語られた。
新報メッセージで触れることのできなかったアウグスティヌス『告白』の一節「わたしは、死ぬことのないように、あなたのみ顏を仰ぎ見るために死のう」を取り上げ、告白すること、神の御前にあることの重大さに人間は強情に激しく争ってきた。しかし、「あの十字架の鮮烈さ、それは神が人間に究極の激しさをもって争っておられるのではないか」とした。
我々は大震災を外から見ることはできない。2万人もの犠牲者、殉職者たちを知るときに震災を生き延びた者たちはどうすべきかを考えねばならない。すでにメディアも、教会も「ひたすら忘却に耽っている」と警告する。バーゼル美術館でホルバインの描いた「墓の中に横たわるキリスト」を見たときの衝撃と、罪と死を忘れてしまっている「安価な恩寵」、日本のプロテスタント・キリスト教の軽薄さを指摘した。
エゼキエル書37章「枯れ骨の谷」を引き、我々は荒涼たる被災地を前に、神がエゼキエルに問われた「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と同じ問いを問われている。神がエゼキエルに告げるのは「お前たちは生き返る」であった。神が告げたのは「お前たち」であり、わたしたちを大震災の外には立たせないのであるとする。
創造主は救済者である(イザヤ46・4)。イエスは道である。しかも、生れ、死に、復活し、聖霊を送る「動く道」である。土曜日、墓に横たわるキリストは、死という否定を媒介として生へと、命へと動く。永遠に閉ざされた円環はキリストにおいて開かれたことを指摘する。
「心柱」というスカイツリーに用いられた日本古来の工法による建築物の世界一を誇るのではない。その建設地は、かつて関東大震災と東京大空襲において一切の廃虚を経験した土地である。東北もまた同じ再建で良いのか。歴史を貫き、「人生史世界史の深く内面に横たわるあの土曜日のイエスご自身が『ヨコの心柱』の啓示」である。「わたしは道である」と言う方に「神的な救済論的な彼岸へ動かす『動き』がある」のであり、今こそ「教会は教会に成らねばならない」と講演を締め括った。
特別講演を含め、シンポジウム発題等は活字として後日発行される予定とのことである。ぜひこれを手にされたい。
(渡邊義彦報)