すでに第4725号の紙面で報告されたように、福島第一原発の30㎞圏内(自主避難区域)にある原町教会と隣接の原町聖愛保育園に、教団の救援対策本部から調査員が派遣されたのが5月31日であった。状況を詳しく知った岡本知之委員、藤掛順一委員と藤盛勇紀幹事は、その調査の帰路、この教会と保育園の働きは、原発30㎞圏内という状況の特殊性からしても、教団として緊急にこれを支援し、さらに内外にこの状況と働きを知ってもらうためにも、情報を発信する必要を強く感じさせられた。
早速、調査員は、救援対策本部の各委員に対して、原町教会の調査報告と共に具体的な支援の提案を行ったところ、救援対策本部各委員の了承が得られ、高橋和人東北教区議長に連絡の上、直ちに緊急支援が行われることとなった。
この緊急支援の内容は、原発事故の深刻な影響下にあって礼拝の群を守り、地域の人々の救いのために伝道・牧会に励んでいる原町教会の朴貞蓮牧師の生活と活動の支援へ200万円を、また、同じ状況下で地域の子どもたちとその保護者たちに、遊び場・交わりの場・相談の場を提供して原町教会と協力して地域のために奉仕している原町聖愛保育園の保育士・職員の方たちの働きのための緊急支援金として1、000万円をお献げするというものである。
調査の翌週の6月10日、石橋秀雄教団議長に藤盛幹事が同行してこの緊急支援金(目録)を手渡すと共に、原町教会の朴貞蓮牧師、教会役員、保育園職員の方々と懇談し、情報を交換して、互いに励まし合った。
地震の被害は経験した者も少なくない。あるいは津波の被害は、目の当たりにする現状そのものが訴えるものがあるだろう。しかし、原発事故による被害を知るには、ある程度の知識や想像力が求められる。放射能の影響は、目に見えない故の不安が、また別の新たな影響を人の心身に及ぼす。
原町教会が置かれている福島県の浜通り(沿岸地方)の状況は、マスコミがほとんど入らないため、なかなか現実が伝わりにくい。福島県の浜通りと言えば、ほとんど放射能の被害と思われがちだが、岩手や宮城と同じように、沿岸部は「壊滅状態」なのだ。しかも、放射能の影響を危惧して、マスコミのみならずあらゆる業界がこの地方に入ることを避けているため、電話やテレビを新たに設置することさえできない。4月に着任した朴牧師も、携帯電話とワンセグ(携帯の地デジ受信機能)が唯一の情報手段だという。
岩手や宮城では、津波の被害を受けた沿岸部もこの3ヶ月の間に、瓦礫もかなり片付けられつつある。ところが浜通りでは、手つかずの所が目立ち、陸上に流された多くの漁船が、道路沿いに残されたままだ。津波で損壊した建物も、取り壊すことさえできず、不自然で危険な状態で立ったままだ。
南相馬市の30㎞圏内に住む子どもたちは震災後、圏外の学校にバスで通うことになったが、そのバスは道路を塞ぐ大小の船を回避しながら進む。ふつうでは想像もせず思いもしないはずの光景を、子どもたちは現実として毎日見せられた。これが子どもたちの心に深く食い込んで、その体にも予想もしなかった影響を及ぼしているという。
それは、この地域に戻ってこざるを得ない事情があって保育園に集まってくる子どもたちも同様だ。就学以前の幼児たちを円形脱毛症や拒食症、不眠といった症状が襲っている。もちろん、保護者たちの不安も、この放射能の影響が言われる地方独特のものがある。原町教会の役員の一人が、「私たちはモルモットです」と言う。あるいは、「何十年後の研究のためのサンプルにされていると感じている」、とも。
原発から20㎞~30㎞の間の「境界の地」に住む人々の思いは複雑だ。子どもや病人は「立ち入らないことが強く求められる」。しかし、それにもかかわらずこの地域に戻ってこざるを得ない事情、避難したくてもできない事情がそれぞれの家庭にあって、幼い子どもたちも避難先から帰ってくる。原町教会と聖愛保育園は、こうした子どもたちやその家庭の大人たちの交わりの場、心の拠り所である。
原町聖愛保育園は、他の二つの保育園と協力して、30㎞圏外で共同保育を試みたが、保育方針が全く違い、礼拝はもちろん祈りさえままならない現実に直面した。全体の保育時間が終わり、帰りの挨拶を済ませた後に、「子どもたちと端っこに集まって、こっそりと祈った」。独自に保育ができる場所を求めたところ、理想に近い環境が提示された。職員の給与も出ない状況の中、迷ったが、今回、教団からの支援の申出を受けて、そこで新たな活動を始める決意が与えられた。石橋議長と幹事は朴牧師と役員に連れられて、新しい土地を見た。研修所として使われていた建物と土地で、フェンスに囲また土地も広く、一方は住宅地、他方は広い畑に囲まれ、安心して子どもたちを遊ばせられる。その地区の名は「江垂(えたり)」。早速、「得たり!」と、いつもの石橋議長のだじゃれで一同笑いのうちに希望を語りあった。
(藤盛勇紀報)