石川一雄さんが3月11日に逝去された。昨年9月に行われた、「キリスト者による狭山要請行動」で、再審を求める要請文を東京高等裁判所と東京検察庁に提出する場に、取材者として同行していただけに衝撃を禁じ得ない。
教会は、主イエスの地上の歩みを「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」たものと告白して来た。ピラトは、殺害を企てたわけでもなく、裏切ったわけでもなく、無責任な叫び声を上げたのでもない。主イエスが何も悪いことをしていないことを見抜きながらも、最終的には群衆を恐れて十字架に引き渡した。ピラトの姿勢には、神よりも人を恐れ、真理よりも自己保身を優先させざるを得ない人間の支配の限界が現わされている。神の独り子が人間の罪を担った苦しみが、人間の支配が生んだ冤罪によってもたらされたのは示唆的だ。
「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である」。キング牧師が見ていた「最大の悲劇」が乗り越えられない限り、科学的捜査が進み、法制度が整えられたとしても冤罪は無くならないのかもしれない。改めて、「善人の沈黙」に陥る一人のピラトとして歩んでいる自らを省みたい。