あれから30年。当時私は大阪・北摂地区にある茨木教会の担任教師2年目。最初の子が生まれてまだ2ヶ月。あの日、突然の強震に見舞われた。
夜明け前でもあり、瞬間何が起こったのか分からなかった。タンスが倒れるかと思って、片手でタンスを押さえながら、もう片方の手を、隣に寝ていた長女の脇について、揺れが収まるのを待った。階下では、玄関に置いてあった金属バットが大暴れして、もの凄い音を立てていた。大阪で大地震に遭うなど、全く想定外だったので混乱したが、何が起こったのか理解するのに時間はかからなかった。震災を巡る当時の教団の混乱に、若かった私は正直、絶望しかけた。
それから16年。東日本大震災の時は、教団の総務幹事。震災初期に仙台に入ってから、岩手から千葉までほとんどの被災地を訪ねたが、阪神・淡路大震災と全く違ったのは、被災地の途轍もない広さと、初めて経験するレベルの原発事故。最終的な処理のゴールも見えない。
そして能登半島地震から1年。心身と生活の傷の癒えないまま、未だ復興の道筋さえ見えてこない。
多くの人々が途方に暮れる思いで、何とか日常生活を建て上げている。そこに、途方に暮れても失望させない神の憐れみが現されることを信じる。(教団総会副議長 藤盛勇紀)