光は暗闇の中で輝く
旭川六条教会 《北海道》
旭川六条教会は、2022年度のクリスマスの燭火讃美礼拝(イブ礼拝)とクリスマス礼拝を感謝の内にささげることができました。特にイブ礼拝は、新型コロナウイルス感染症のため2年間中止せざるを得ませんでしたので、感慨深いものがありました。
12月24日午後7時から燭火讃美礼拝をささげました。内容は礼拝、特別讃美、ハレルヤコーラスの3部で構成し、プロジェクターで聖書の場面等をスクリーンに映し出しました。教会員有志による聖歌隊の合唱、チェロとピアノの演奏(特別讃美)がありました。ろうそくの光が暗い会堂を照らす中、一同で讃美歌を歌って平和を祈りました。牧師が「光は闇の中で輝く」との説教を語り、その中でロシアによるウクライナ侵攻について言及しました。「第一次世界大戦中の1914年、ドイツ軍と英国軍が休戦した。世界の人に平和が訪れますように」と祈りをささげました。
25日のクリスマスは、牧師が「呼びかける声がある」との説教を語り、礼拝をささげました。礼拝に引き続いて、教会員のピアノによる特別讃美がありました。礼拝後の退席時に、クリスマス・プレゼントを出席者に配りました。感染症に配慮して慣例の愛餐会等は中止しました。なお、どちらの礼拝も動画としてユーチューブ配信されています。
昨年2022年は、六条教会の信徒だった小説家三浦綾子さんの生誕100の年でした。六条教会では、三浦光世・綾子ご夫妻をしのぶ「懇談会」を7月から毎月計6回開催しました。教会員がご夫妻の思い出を語り、教会の121年の歩みの中に位置づけ、分かち合いました。お二人の思い出を共通の宝とすることができました。教会外でも、三浦綾子さんについての様々な企画・イベントが実施されました。そのせいか、クリスマスの礼拝には一般市民の出席もありました。
(後藤正敏報)
教派を超えてクリスマスを祝う
市民クリスマスin千葉2022 《千葉県》
2022年12月10日に多くの方の祈りとお力添えに励まされ、また主の導きと御守りの内に、市民クリスマスin千葉2022を、千葉市民会館・大ホールを会場に開催することができましたことを感謝しています。コロナ感染症が心配されましたが、約200名の方が参加しました。
この市民クリスマスin千葉は、千葉市内の超教派牧師会を母体とした取り組みです。教派が違えども唯一なるイエス・キリストを信仰し、共にクリスマスを喜び祝う時を過ごしたいという祈りから始められました。この集いは単に主のご降誕をお祝いする場を共に準備し礼拝するだけでなく、教派を超えた良き交わりにもなっています。
そのような背景を持つコンサートに、今回はゲストとして、シンガーソングライターでもある、日本基督教団東美教会の陣内大蔵牧師をお招きすることができました。これまでは礼拝とコンサートの二部構成でしたが、メッセージもコンサートも陣内牧師にしてもらうことから、それらを組み合わせた新しいスタイルに挑戦しました。
陣内牧師が自らコンサートのテーマを、「そして僕は今日も歌おう」と定め、自身の証しを中心にクリスマスのメッセージを語りました。牧師家庭に生まれたという生い立ちから、クリスマスの思い出も紹介しつつ、私たちがどのようにクリスマスを過ごせば良いのかを、マリアの賛歌を用いて力強く説き明かしました。
コンサートでは定番の讃美歌やクリスマスソングに加えて、歌手としてご自身が手掛けた楽曲も披露し、大盛況でした。
私たちの内にだけでなく、主の栄光にまだ照らされていない人と場所に、クリスマスの喜びが豊かにありますように。
(菊地信行報)
密になっても大丈夫
旭東教会 《岡山》
コロナ対策が厳しく言われるようになった2021年の8月から、旭東教会では、あることを切っ掛けにして「密な信仰生活」を送るようになり始めました。旭東教会の礼拝には2度の報告の時間があります。礼拝の前半部分と、祝祷後の時間帯です。その最後の報告の時間で「1分間の分かち合い」という名の時を過ごすようになったのです。「密」を礼拝の時間に持つなんて今の時代に逆行しているように見えます。しかし、窓を開ければ換気が確実にできる会堂です。20分毎に5分間の窓開けを徹底し、「1分間の分かち合い」を毎週行っています。
一週の間に起こった喜怒哀楽、お祈りしてほしいこと、分かち合いたいささやかな喜び、失敗談などが、手を上げた人の持つマイクを通じて拡散して行きます。マイクは聴力に弱さを覚える方への配慮であり、同時にマスクをしていても聞きやすいという利点があります。二人、三人での会話の内容を教会全体に広げるのは難しいものです。でも、礼拝出席している一人ひとりが耳を傾ける時間帯に皆が同時に聴くことができれば、私たちは心の架け橋となる情報を共有できるのです。
教会という場所は個人的に親しくお話をしたことのない方が居られるものです。その関係性を思いがけない形で変えられる時間となりました。今では手が次々に上がる日も少なくありません。週報にお名前を記し、抄録としてその中身を掲載する努力も続けています。お休みの方も後日読むことができます。
クリスマス愛餐会では、黙食していても互いの心の距離が以前にも増して近くなっていると感じたのは、私の気のせいではないと思ったのです。教会は一体感に満ち、笑顔があふれました。「1分間の分かち合い」の力だと信じています。
(森 言一郎報)
〝小さな群れ〟の強さを感じながら
長崎飽之浦教会 《長崎県》
新型コロナの流行が始まって4年目に突入しました。2020年当初、わたしが抱いていた感想は、①このままズルズルと感染拡大に歯止めがかからず「北斗の拳」の描く世紀末世界に突入する。②何とかこの危機を乗り越えて、「ドラえもん」の描くバラ色の未来に進む。の二通りの未来でした。
①の場合、「“善良な牧師”なんてのは真っ先に死んでしまうのでいやだなぁ」、とか思っていました(自分で“善良な”とか言ってる時点で結構図太く、したたかに生き残っていきそうですが…)。北斗の拳の世界では、大概生き残っている宗教者というのは胡散臭い新興宗教の教祖くらいで、他者の犠牲の上に「自分さえ良ければそれでいい」的な人物が描かれることが多いように思います。
一方、②の場合はオンライン会議の普及により、移動せずに遠くの人と繋がることができる状況は、まさに“ドラえもんの未来”であり、「そういや22世紀の世界でセワシ君が学校行ってるトコとか見たことないなぁ。それって授業は全部リモートだからかなぁ」とか妙に納得してしまう部分がありました。
そんなことをあれこれ考えながらも、私の牧する教会は(代務する教会も含めて)礼拝出席者が少ないことも幸いし、この3年間一度も休まず礼拝を続けることができています。“小さな群れ”であることの強さをこれほど感じたことはありません。
また、感染がピークに達する状況でも、教会にはたくさんの子どもたちが遊びに来ています。おそらく外で遊んでいると、近所のおとなに咎められるといった事情もあるのでしょう。こちらが「そんなに近づいて大丈夫か?」とヒヤヒヤするくらい、教会の中では普段通りの子どもたちの姿が見られました。そうやって教会が子どもの居場所として認知されているのだとすれば、私たちが「この地で踏ん張る」意味も与えられると思っています。
まだまだこの先の未来がどうなっていくのか、見出せない部分もたくさんありますが、この地で神様と共に歩んでいきたいと願っています。