主の食卓に集まろう
コリントの信徒への手紙一11章17〜26節
富士見町教会牧師
藤盛 勇紀
「集まる」ことによって
今年の元日は日曜日となったため、礼拝に集い、「主の晩餐」聖餐に与って新年をスタートした教会も多かったと思います。この手紙の11章に入ってから、礼拝や集会での混乱の問題、秩序をどう回復するかという話になっているのですが、冒頭でコリントの信徒たちを褒めていたパウロは、この箇所では、「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません」(17)と言います。「あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているから」(17)だというのです。ここでパウロが触れる問題は、教会の生命線に触れる深刻な問題です。 教会とは何か。私たちは信仰告白で明快に言い表します。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」。教会とは、神の恵みによって召された者たちの「集まり」です。キリストに結ばれて一つとされた恵みは、私たちが「集まる」ことによって、具体的に現わされ、造り上げられて行きます。ところが、当時のコリント教会では、集まることが「むしろ悪い結果を招いている」という事態に陥っていました。教会破壊的なことが起こっている。なぜそんなことになっているのか。それは、「まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがある」(18)のだと。「仲間割れ」や「仲間争い」が教会にあるのは非常に気になることですが、この手紙の初めから、分裂や分派が生じていたことは分かります。それが、「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」(20)という事態にまで至っていました。「主の晩餐」が「主の晩餐」になっていないという問題です。 「主の晩餐」は、イエスご自身が「わたしの記念としてこのように行いなさい」と命じられた特別な食事です。その食事は、主ご自身がいてくださる食事、主がおられる食卓です。 ところが、「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」。混乱というより破壊です。それは「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だ」(21)というのです。そんな状態を知ったパウロは、厳しい言葉で叱責します。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう」(22)。「教会を見くびる」というのは、軽んじて侮ることです。「どうせ、ただ人が集まっているだけだろ」「主の晩餐と言っても、ただの食事だろう」と。そのように、集まることを、軽んじることです。 この先の、33〜34節の指示から分かりますが、コリントの信徒たちは、集まって食事をするのに「互いに待ち合わせる」ことさえできませんでした。ある人たちが先に食事を始めてしまったり、集まって食事をするにも、分け合うことさえしない。裕福な人たちは、自分の家ですでにリッチな食事を済ませ、当然ワインもたっぷり飲んでいる。教会に集まる時には、すでに酔っ払って、良い気分。かと思えば、奴隷のような貧しい人たちは、その日の仕事をすっかり終えてからでないと、集まりに参加することができません。ようやく教会に集まってみると、すでに食事も聖餐も終わっている。そのように、貧しい人々が辱められている。 今ではちょっと考えられないような有り様ですが、こんなことで「主の晩餐」、「イエスの食卓」が成り立つはずがありません。「主の晩餐」は、ただの食事ではなく、「主の」食事です。その食卓には主ご自身が臨席しておられます。だから教会では、この文字通りの「食卓」が、礼拝堂の真ん中に置かれるのです(時代によって、前方の壁に祭壇として置かれたり、説教卓と会衆席の間に置かれたり、文字通り中心に置かれたりします)。
主の恵みを味わい知る
コリント教会の混乱ぶりですが、聖餐の破壊にまで及んでいたとは、少々衝撃的で、「これでも教会か」と思わされます。しかし、教会という集まりは、決して聖人君子や聖く正しい人の集まりではありません。「義人なし、一人だになし」(ローマ3・10)。教会は常にあらゆる人を招いています。当然、常に問題や悩みを抱えています。パウロも第二の手紙で、自分が経験した想像を絶する患難について告白した後で、言うのです。「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」(11・28)。パウロを悩ましたのは、命が脅かされるような患難より、むしろ「日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事」でした。さらには、パウロ自身の肉体的・精神的苦痛が追い打ちをかけていました。そんな日々で、彼は何を味わい、知ったのかというと、主ご自身が自分に語ってくださるお言葉なのです。主はパウロに親しく語りました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12・9)。だからパウロは言ったのです。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(12・9〜10)。
私たちが知る主の恵みは、具体的です。主の恵みは、何か新しい考え方だとか、気の持ちようのようなことではなく、自らの体をもって味わい知るものです。自分の肉体や心の弱さにもかかわらず、時には「行き詰まりの状態にあっても」、満ち足りて生きられる恵みです。「わたしは弱いときにこそ強い」と言い切れる強さです。主の恵みは、力を発揮するからです。
そこで、単純、率直にお勧めしたいのです。主は語っておられるのですから、日々主の御言葉に聞きましょう。そして、集まりましょう。この私たちの体をもって、主の恵みを味わいましょう。もちろん、感染症の危険がありますから、集まることは相変わらず難しいのです。しかし、ただ引き籠もって健康を保つとして、そこでいったい何を守るのか、考えたいと思うのです。
パンデミックが始まった頃、「礼拝に来てください」とは言えないので、教職と一部の長老に限定して礼拝を献げました。礼拝は中止すべきだという意見もありました。人命の方が大切ではないかと。それはそのとおりです。しかし、なぜ限定しても礼拝を続け、リスクを冒して集まったのか。それは、最も大切なことは何か、私たちに最も必要なことは何かを、示すためでもありました。
実際に主の食卓の周りに集まる礼拝は、教会共同体にとって何より大切なことです。ここで主の御声を共に聞いて、共に主の恵みを体で味わい、遣わされる。それ以上に大切で価値あることが他にあるでしょうか。
コロナ禍に対応する生活は、4年目に入りました。また、人それぞれ様々な事情も抱えています。それでも、基本的には集まりましょう。「主のもとに、主の食卓に集まろう」と、呼びかけ続けます。私たちは、ここに臨んでくださる主の民、主のものだからです。