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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4964・65号】クリスマス メッセージ-新しく創造される-(1面)及川 信

2021年12月25日

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く創され

ガラテヤの信徒への手紙6章15節

及川 信(山梨教会牧師)

プレゼント

 クリスマスはキリスト教徒のお祭りのはずなのに、この国では家族でケーキを食べる日だとか、楽しい宴会の日だとか、恋人同士のデートの日だとかで定着している。そして、クリスマスにはプレゼントをする習慣も定着しているようだ。この習慣はいつ何処始まったかは知らない。でも、きっと神様から始まったのだと思う。

 「とてもとてもこんなものを私は受け取れません」という言葉がある。プレゼントを受け取ることは嬉しいことであるに違いない。でも、時にそれは恐ろしいことだと思う。特に神様からのプレゼントを受け取ることは、本当に恐ろしいことではないだろうか。神様にとっても、そうなのだと思う。

マリア・ヨセフ

 マリアは、受胎告知をする天使の挨拶を聞いたとき、戸惑い、考え込んだ(ルカ1・29)。そして、「どうしてそんなことがありましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(1・34)と言った。当然である。そんなことがある訳ない。また、彼女の言葉を誰が信じると言うのだろうか。家族だって信じるはずがないし、村人が信じることなんてあり得ない。「マリアは戒律を破ってヨセフと関係を持ったんだ」とか、「他の誰かと不倫をしたに違いない。その言い訳にこんなことを言っているんだ」、そう言われるに決まっている。だから彼女は誰にも言えない。

 しかし、その彼女が、イエスに関する天使の言葉を聞いて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1・38)と、全身を主に投げ出すのである。

 ヨセフは、どうなのだろう。彼とマリアは婚約中であったが、まだ一緒に暮らしてはいなかった。その時に、マリアが身ごもった。マリアの胎の子はヨセフの子ではない。ヨセフにしてみれば、マリアは他の男と関係をもったとしか思えない。ヨセフは、悩み苦しんだに違いない。彼は律法に従って生きる「正しい人」(マタイ1・19)であったから尚更である。ヨセフが訴えれば、マリアは姦淫の女として石打ちの刑で処刑される。ヨセフにしてみれば、そんなことは出来ない。だから「ひそかに縁を切ろうと決心した」(1・20)。しかしそれは、ナザレの村からのマリア追放を意味し、生まれる子には父親はいないことを意味する。そもそも、マリアとその子はどうやって生きて行けば良いのだろう。石打ちで犯罪者として処刑されることよりは良いとしても、ヨセフの決心も悲惨極まりない結果をもたらすことは間違いない。

アウグストゥス 羊飼い

 当時のローマ帝国の皇帝はアウグストゥスであった。彼は「ローマの平和」を作り上げた人物である。各地に巨大な皇帝像を建て、帝国内の民衆に「皇帝崇拝」を強要し、自身の誕生日を「福音」と呼び、自らを「救い主」と呼ばせていたと言う。

 日本でも戦国の世が続いていた時は、天下を平定する人を「天下人」と呼んだ。それは、天下に泰平(平和)をもたらした人という意味である。

 しかし、彼らがもたらす「平和」は経済力と兵力による。そのことを表すのが「人口調査」である。それは税金と徴兵の調査であると思う。ナザレ村に住んでいたヨセフとマリアは、マリアの臨月が近いのに、ヨセフの登録のためにダビデの町ベツレヘムまで行かねばならなかった。彼はダビデ家の家系であったからである。

 その頃、ベツレヘム郊外の野原に羊飼いがいた。彼らは自分の羊を飼っていた訳ではない。オーナーは町の中にいる。羊飼いとは、債務奴隷だったと言われたりもするが、身を持ち崩した者たちである。家族はないし、羊と共に寝起きしていた。彼らは羊泥棒や、羊を襲う狼なども警戒しなければならない。当然、動物臭があり、町に入ることなど出来ず、税金も徴兵も関係がない。だから、「人口調査」とは関係がない。言ってみれば、人扱いされなかった人々である。しかし、そういう人々に、天使は「民全体に与えられる大きな喜び」(ルカ2・10)を告げたのである。それは救い主、「主キリスト(メシア)」のダビデの町における誕生である。そして、そのキリストは飼い葉桶の中に寝かされているというのである。あらゆる点で、アウグストゥスと対極である。しかし、家畜小屋であれば羊飼いも行くことが出来る。

 このキリストは、十字架に付けられて犯罪者として処刑される。家畜が口を突っ込む飼い葉桶に寝かされ、犯罪者として十字架で処刑される。しかし、この方が、全ての民の「喜び」であり、このようにして全地に「平和」をもたらすと天使は言う。神様が贈ったプレゼントはそういうものである。

神様のプレゼント

 『聖書』には旧約聖書と新約聖書がある。神はご自身の子を通して新しい契約を「全ての民」に与えたのである。それは、神様にとって「新しい契約」である。つまり、イスラエルを越えて全ての異邦人に及ぶ契約である。その契約は、飼い葉桶に寝かされ、十字架で処刑される方によって「平和」を創り出す「契約」であり、それが神様のプレゼントである。

 それは神に背く罪を犯す人間を赦し、神の子にするために、罪なき独り子を生贄として天から派遣する。その様にして与えられるプレゼントである。それまでの神様にとっても、初めてのことである。そのようにまでして、私たちを救おうとしてくださるのである。

新しく創造される

 そのプレゼントを頂くことは、それまでの自分を温存しつつ出来ることではない。新しい存在にならねば出来ない。それは、それまでの自分の崩壊を意味する。

 神様は、このキリストの十字架の死と復活を通して、「アッバ、父よ」と神様を呼べる道を造ってくださった。この方をキリストとして地上に派遣するとは、飼い葉桶に生れさせ、十字架で処刑されることに繋がる。それは大変なことだ。しかし、その様にして、神様は全地に「平和」を創り出そうとされたのである。そこに、これまでにはない神様の栄光が現れている。

 神様からのプレゼントを受け入れることは、それまでの自分を温存したまま出来ることではない。

 パウロは、こう言っている。

「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤ6・15)

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