【4946・47号】新型コロナウイルス 感染拡大の渦中で 教務教師の声に聞く

木村 良己 《同志社中学校・高等学校》

「間」がある「協育」が「未来」を育む

「明石家さんまはテレビに出ずっぱりだけど、今の子どもには『さんま』がない」と言われて久しい。勉強勉強!で「時間」がない、遊びたくっても「空間」がない、競争競争!で「仲間」がいない。そんな「時間・空間・仲間」という「さんま(三間)」に「手間」を加え、「未来」を生きる生徒たちが勝手に育つ環境を整えておくことが教育者の使命であると考え、十字架の元に力を合わせる「協育(きょういく)」に携わってきた。「間」が抜けていない触れあい、集い、楽しみ、学びに制限が加えられ、「距離」という規範が生じて、フィジカルディスタンスに配慮しながらの現実に直面している。

思えば一年前、学年末試験のさなか急遽休校となり、オンライン授業の日々が続いた。生徒全員がi-Padを備えていたとはいえ、チョークと黒板での対面授業をメインにしてきた者に突如訪れたオンライン授業実践。授業支援アプリ「ロイロノート」を使ってスライドを作成し、音声を入れる。生徒たちは画面に向かって授業に参加し、ノートをカメラで撮って送信ボタンを押す。こちらには全員のノートが画面一面に映し出され、確かに便利だ。これを機にデジタルやロボット導入、ICT環境の整備が広がるのだろう。情報を共有するためには効率的で便利ではあるが、生身の付き合いは難しい。事実、授業の余談・脱線や生き生きとした笑顔は失われた。何か「間」が抜けている。速くできる、便利であるには違いないが、やっぱり協育にはそぐわない。じっくり考え、しっかり選択し、ゆっくり生きて行く。いのちを紡ぐとはそういうことだ。授業を早送り再生したかもしれないけれど、もし早送りしてはならないものがあるとすれば、今の「中高生である」時期なのだろう。

ウイルスがあっという間に世界中を襲い、誰にでも感染リスクをもたらすことを実感した。誰もがみな等しく、この弱い身体を持っていることにも気づかされた。本来ならば、その身体の弱さ、いとおしさを知った者は他者の痛みにも敏感であるはずなのに、現実には社会的立場の弱いところから脅威にさらされている。今だからこそ見える、今だからこそ気づくことを大切にし、他者が直面している問題に自分事として向き合うことの大切さを想う。その意味で「スピードアップ」が求められ「誰が生き残るか?」という現実社会の中で、「みんなで生き残るにはどうしたらいいか?」への転換を促す「スローダウン」の出来事として、この困難な時期に「中高生である」ことの可能性に大いなる希望を託している。「未来」は、社会科の教科書の最後のページにある、歴史年表の右の端っこにあるのではなく、目の前にいる生徒一人一人が「未来」なのだから。

山元 克之 《青山学院高等部》

渇きの中で「真実の言葉」に立ち返る

東日本大震災から10年が経過しました。今なお、避難生活を余儀なくされている方がおられ、また深い傷を抱えたままこの日を迎えられた方がいることを思います。主の慰めを祈ります。

あの時、私は奥羽教区の花巻教会で主任担任教師として仕えていました。未曽有の大災害の中で、先の見えない暗闇が広がりました。私ができたことは、与えられた務めを果たすことだけでした。すなわち、御言葉を語り続けることです。教会の方が御言葉の慰めを求めておられると感じていましたし、何よりも私自身が切に求めていました。

2020年、新型ウイルスの脅威に、世界中が再び先の見えない暗闇に包まれました。私にできることは何かと考えたとき、震災の時、花巻教会の牧師室で考えたことを思い出しました。今までと変わらず、与えられた務めに誠実に励むこと、それが大切だと思いました。

今、私はキリスト教学校(高等学校)の教務教師として仕えています。2020年度の始まりは、他の多くの学校と同様に、生徒は登校することができませんでした。そのような状況下にあるからこそ、いつもと変わらず、平日には生徒に御言葉を届けたいと思いました。キリスト者の教諭の協力をいただいて、毎日短い御言葉のメッセージを書面にして、オンラインシステムを使い、生徒に送り続けました。どの教員も初めてのオンライン教育の準備をしたり、その他にも今までにない教育の形を模索したりしていて、多忙を極める中で、ご協力いただけたことはありがたいことでした。

対面授業が再開された後も今まで通りとはいかず、短縮授業や分散登校、時差登校、あるいは再び休校になる期間などもありました。

礼拝のまもり方もその度に変わりました。全学年が放送を聞きながら礼拝をまもる時期もありました。感染者数が落ち着いていた時期は、講堂に集まる学年と教室でライブ配信を見ながら礼拝をまもる学年を分けたりしながら、その時その時の状況に応じて礼拝の捧げ方を検討しつつ、聖書の御言葉が毎日生徒・教員に届けられるようにと、そのことだけを祈りつつ整えました。

今年度は例年以上に生徒から多くの感想が寄せられました。御言葉に励まされたこと、力づけられたこと、慰められたことなど。生徒も魂の渇きを感じていたのだと思います。そしてその渇きが神の御言葉に出会うことで潤うことを経験したようです。聖書の御言葉は人を生かす真実の言葉であることを改めて強く感じました。

まだまだ先の見えない不安な状況が続きそうです。しかし、いやだからこそ、それでもやるべき一つのことがはっきりしていることが、キリスト教学校のまた教会の強みなのだと思っています。不確かな世論に振り回されるのではなく、どのような時も決して変わることのない確かな真実の言葉に信頼し、それに聞き、また語り、共同体全体がそこに立ち返る。今日もそのことを続けていきたいと思います。

百武 真由美 《遺愛女子中学校・高等学校》

「今、この時にこそ聴くべき言葉」を

新型感染症の影響で生活様式が一変して一年になる。昨年の今頃は全国一斉臨時休校の指示で、卒業式が急遽取りやめになった学校も多かった。あの時以来、学校の予定は大幅に変更を余儀なくされた。ほぼ全ての行事が中止、各種大会も見送りとなった。生徒たちの「やりがい」、「愉しみ」がことごとく奪われてしまい、生徒も教職員も感染症の情報に振り回された。

学校は本来共同の場である。生徒が「共に過ごす」ことに学校教育の本質がある。キリスト教学校が一番に直面したのは、礼拝のために集まることができなくなったことだ。今年度、本校で全校生徒が集まって礼拝できたのはたった2回だけだ。それも時間と距離に細心の注意を払い、讃美歌は短く、大きな声は出さず、あるいは心の中で歌うように促してである。ただでさえ短い学校礼拝が「瞬間芸」と化した。特に新入生は集合する礼拝の経験がなく、礼拝が「皆で共に」捧げるべきものであることをどう伝えたらよいか迷った。

学校は教会より一層、関係者のいのちと健康に責任的でなければならない。そのため教師たちも未曾有の事態に対応することで精いっぱいだった。だからこそ各々の学校での「キリスト教」が日頃どのような立ち位置にあるかが露呈しただろう。

私の場合、コロナ禍の真っただ中で都心の学校から地方の学校へ転任した。関係を築くのにも普段以上に時間と気配りを要し、牧会のスタートラインに立つこと自体に困難を覚えた。そしてマスク越しで互いの顔も知らない中、彼らに放送で毎朝御言葉を語るのは、正直、喜びや感謝ばかりでなかった。だからこそ、これまで以上に「今、生徒たちがこの時にこそ聴くべき言葉」を語ることに力を注いだ。大人以上に十代の若者は見通しのつかない将来に(漠然とでも)不安を感じている。不安のあまり思考することを拒否しているように見える子もいる。その生徒らに、今、この時代、ここに生かされている意味を語り、「あなたを喜び尊んでおられる神さまは、目には見えないけれど共にいてくださる」ことを語り掛けた。すると、放送による礼拝であってもそれぞれの教室で不思議な一体感が生まれるようになった。当初は教室で捧げる放送礼拝では生徒は集中しないのではという懸念が教職員にはあった。けれども生徒たちには「ほんもの」に対する反応力があったように感じる。

教会訪問も中止せざるを得なかったが、ウェブ礼拝を紹介して参加を勧めている。積極的に視聴する生徒が多かったことが嬉しかった。

ウイルスという目に見えないものに振り回されながら、人間はいのちを支配できないこと、この状況下でこそ御旨に従ってたてられたこの学び舎に招かれ、呼ばれてきた意図が神さまには必ずあることを共に信じるよう教えられているように感じている。

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