【4944・45号】2・11メッセージ

「慰安婦問題」で韓国の裁判所が賠償責任を日本に問うていることへの対応について日韓関係への影響が懸念されている。そのことに思いを巡らせていた日々、「めぐみの高き嶺」という讃美歌を思い出した(聖歌589番)。「ひかりときよきと平和にみちたる めぐみのたかきね われにふましめよ」のリフレインフレーズが心を打つ。

思い出すのは実話をもとにしたノンフィクション映画の一シーンだ。日帝支配時代の韓国で、韓国の民衆が神社参拝を強要されていた頃、朱基徹(チュキッチョル)牧師はそれを拒否した。さまざまな抑圧と迫害の中で、決して自らの意志を曲げない牧師は拷問による苦痛の中で獄死する。燃えさかる火の中を歩かされる痛々しい拷問は見ていられないほどの辛い、酷いシーンで深く印象に残っている。この映画のタイトルが「恵みの高き嶺」で、私は90年代にこの映画を観た。信教の自由のことを思う度にこの映画のことを思い出す。

2012年に訪韓した折、独立祈念館の一コーナーで、提岩里(チェアムリ)の教会が焼き打ちされた事件について大きなスペースがさかれ、事件についての詳細が示されていた。時は三一独立運動当時であり、先の映画とは状況も、出来事の性質も違うが、何故か映画の記憶とそれが重なっていく。それは神社参拝強要という共通項のゆえである。なにゆえに、軍国日本が韓国民衆に対し神社参拝を強要していたのか、理由はいろいろ考えられるだろうが、実効支配を強化するための施策として有効だと考えられていたのだろう。しかしここで重要なことは宗教が支配者の道具として利用されたということだ。日本と韓国の問題だけではなく、世界の全ての歴史のいたるところで、宗教は支配者の道具として利用されてきた。キリスト教はそれの最たるものかもしれない。自戒を込めて私たちはこの問題を考えなければならない。

この日本では私たちキリスト者は少数者であるかもしれないが、宗教にはそういう面があることを心にとめなければならない。宗教が強制力を持つとき、宗教は支配者の論理で人を縛りつけるものになる。信教の自由は日本国憲法の中で基本的人権の一つ、自由権として示されている。人権が擁護されなければならない前提に立った上で、何事も強要されない自由な人格と人格の出会いの中でこそ、信仰は培われていくものなのである。そこで大いなる者(神)と人との出会いは、人が他者に強いて意図的になすものではなく、神ご自身が導くに委ねられるものなのである。

誰に強要されるはずもなく、恵みの高き嶺を求めて踏みゆく一歩一歩は自らの歩みにおいてである。そこにこそ信教の自由の上に立つキリスト者の自由と平和への道のりがあるのである。

 

2021年2月11日

第41総会期日本基督教団

社会委員長 森下 耕

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