日本基督教団は、「天皇の退位および即位の諸行事に関する声明」を出しました。教区の取り組みとして、今号で西中国教区、大阪教区、次号で東京教区、北海教区、兵庫教区を取り上げ、報告します。
♦西中国教区♦ 学習を越える取り組みを実施
現状において天皇制の問題は二つに分けて考える必要がある。一つは、法的な問題。つまり象徴天皇制は残念ながら憲法と関連法規がある。しかし、その運用が超法規的に為されている問題である。それは違憲・違法行為であり司法が糺すべきところを政治権力に流され、まともな判断ができない。
前回の代替わり直前の88年、山口自衛官合祀拒否訴訟最高裁不当判決もその一つである。教団信徒によって提起されたその裁判支援の繋がりは、判決後も毎年開催する不当判決抗議集会を通じてあり続けている。
今回の代替わりに際しては、この繋がりを基に教区靖国天皇制問題特別委員会が軸となり、昨年10月、憲法学者の横田耕一氏を迎え「天皇代替わり問題を考える集い@やまぐち」を開催、併せて「天皇代替わり問題連絡会@やまぐち」を立ち上げた。それは単なる学習を越えて、既に提訴準備に入っていた即位・大嘗祭違憲訴訟との連携、また当時囁かれていた山口県の主基田選定に対処するためであった。教区内諸教会へは委員会が情報を発信した。
その後、同連絡会は訴訟支援の他、県知事の護国神社参拝問題に取り組んでいる。また10月22日には「第2回天皇代替わり問題を考える集い@やまぐち」を開催し、大嘗祭二日目の11月15日には第3回を山口市民館前出発のデモ行進として開催した。教区内では広島において広島西分区他により「10・22『即位礼正殿の儀』を問う広島集会」が開催された。
その他、委員会としては2019年9月20日付で「即位の礼及び大嘗祭に現れている、政府の憲法軽視及び違反に関する抗議声明」を表し、幼児施設等に内閣官房が出した奉祝要請に対しては宣教委員会教育部と共同で2019年4月26日付と10月8日付の2度抗議声明を表し、その旨を教区内の幼児施設等に送付した。が、こうしたことは相手が国政府であることからすれば教団として対応すべきであろう。
ところで、こうして教区報告だけで、教団として報告できないことについて記す必要があろう。何故ならば違法行為の典型は越権のみならず不作為でもあるからである。これでは、天皇制問題のいま一つには気付くことも出来ない。(小畑太作報)
♦︎大阪教区♦ 教会から生まれた「人権」は普遍的な理念
大阪教区は総会で「大嘗祭に反対する」ことを確認・決議し、その取り組みを行なっている。既に3回の集会を持った。
第1回目、発題者の原田佳卓牧師(隠退教師)は、何でも無批判に尊重する態度に生き続ける国民の忠誠心の構造を指摘し「信教の自由」とは国家を越える「人権」という価値の受容承認によって成立するのであり「聖なる価値の担い手としての個人」という人間観が必要だと主張した。同じく発題者の吉本幸嗣牧師(岸和田教会)は、国家神道において現人神信仰を復活させようとする動きに対して反対する必要を述べ、特に日本基督教団信仰告白の「主の再び来たりたまふを待ち望む」に立脚し、キリスト者が「天皇制」の問題性を世に発信することの大切さを語った。
第2回目、講師の星出卓也牧師(日本長老教会西武柳沢キリスト教会)は、戦後の天皇の「人間宣言」後も皇室祭祀を担う天皇の職務は依然として在ることの問題性を語り、私たちは「イエスは主である」と告白する教会の信仰を守ることにだけ終始するのではなく、神がたてられた国が神の国となるという課題をも担っており、キリスト者は少数者だからこそ偽りで固めた牙城を崩せる存在だと語った。
第3回目、講師の新堀真之牧師(香椎教会)は「九州教区宣教基本方針2017年度−2026年度」に触れ、宮中祭祀の祭司として大嘗祭において“カミ”となる「宗教性を帯びた天皇」に思いを馳せることは、聖書の神と並べて他の神々を拝することと指摘し、心を向けるべきものに心を向け私たちが自らの信仰のあり方を考えることは、天皇制の課題に向き合うことに繋がると語った。
教区として、今後「天皇制」にいかに取り組むか、新たなステージを迎えている。「人権」という概念が教会から生まれたこと、教会は、人権や差別の課題は国家を越えた普遍的な理念であることを積極的に発信し、キリストが教会の主であり国家の主であると世に証しするためにも、信仰者としてのあり方が問われている。
(宮岡真紀子報)