4日目、福島教会。訪ねた時、既に礼拝堂は更地になっていた。市の文化財に指定される程の、美しい煉瓦作りで、蔦の教会として市民にも愛されていたが、倒壊の危険に、いかんともしがたし。
堀江知己教師は、赴任2年目、厳密には震災時は1年目。絵心のある師が、ほぼ書き上げていたという旧会堂の絵を見せて貰う。写真と見まごうばかり、そして、写真よりも色合いが美しい。100年愛された会堂は、教会員の思い出と、この絵の中に生きることになる。
3日目に訪ねた岩沼教会も、歴史を感じさせ風格のある石造りの会堂壁面が崩落の危機、特に、塔の部分が見るからに危険だ。敷地の奧には付属幼稚園があり、園児もこの側を通って行く。早急な手当が必要となっていた。
キリスト教が浸透し切れていないと思われがちな東北の地には、実は、100年の歴史を刻む教会が少なくない。必ずしも大人数の礼拝ではなくとも、孤島の灯台のように、その役割を果たしてきた。この地震のためにその働きを絶えさせてはならないと痛感する。
信夫教会を訪ね塚本一正師と祈りを合わせる。福島市内は地震以上に、放射能への不安が、町を支配していると聞く。別の情報では、県境には自衛隊が駐屯し、脱出しようとする者を押し留めているというデマが、一時、中学生の間に流れたそうだ。悪質なデマだが、これが流布する程の不安があったことは事実なのだ。
福島新町教会については、前号に記した。
福島市内を出、宿に入って間もなく、場所によって震度6強を記録した激しい余震。心配になり、翌日福島新町教会の瀧山勝子教師に電話すると、亀裂が一層大きくなったとのこと。
5日目、牧師館が居住不能となった郡山教会を経て、磐越高速を通り、いわきに向かう。数日後、余震による山崩れが、この道路を塞ぐ様子をテレビ画面で見ることになるとは。
磐城教会は、隣接の幼稚園が、学校法人化されたものの、教会と一体の働きをしている。震災に当たっても、上竹師の前任地藤沢教会やその近隣教会などから送られて来た救援物資を、幼稚園の車と人手で、物資不足勝ちな海岸部の病院や避難所に送っている。私たちの訪問時にも、ホーリネス教団のワゴン車が、物資とボランティアを載せて到着した。
福島及びいわき市内の教会については、前号に関連記事掲載。訪問後、いわき地方には、震度6強級の余震が2度起こった。
最後の訪問地、郡山教会から福島純雄教師が転任したばかりの筑波学園教会を訪ね、帰路についた。
この他にも、塩竃東教会、仙台東一番町などを訪ねたが、目立った被害はない。
この日の朝、コース変更が最早不可能になってから、栃木県内の諸教会、またアジア学院の被害が大きいことを知った。
茨城県、千葉県等関東の諸教会被害状況は、後日お伝えしたい。
さて、初日、盛岡近郊に宿を取った。古びた宿は、20代の青年で満員。津波被災地で働く労働者だと聞く。海岸部までは山道を車で2時間は走ることになる。朝は5時起き、往復だけで4時間以上。仕事とは言え、頭が下がる。
3泊目の宿は、仙台市内から遠く離れた遠刈田温泉(とおがったと読むが、遠かったに由来するとも言う)の更に奥のホテル。「南三陸町御一行様」と一緒になる。但し、一行は食事も風呂も別扱い。そして、寝室は大広間と聞き心が痛む。折角避難所から逃れられたのに。それでもこの人々にとって、束の間の休息の時なのだろう。
部屋を替わって上げたいと思う。もっとも、当方も布団3組で畳が見えなくなる小部屋だが。
どの宿でも、長期滞在者があると聞いた。お金さえあればハワイにだって住めると言うつぶやきも聞いた。異常な生活が長引き、被災者同士の心にも亀裂が入るのを恐れる。
被災教会支援では、全教団一つ思いで、なすべきことを果たしたいものだ。