【4717号】メッセージ 「キリストの形成るまで」

 

ガラテヤの信徒への手紙4820

雲然俊美

 

途方に暮れている

パウロはガラテヤの教会の兄弟姉妹に対して、「あなたがたのことで途方に暮れている」(20節)と語りかけました。教会の人たちのことで途方に暮れていると。この手紙を受け取ったガラテヤの教会の人たちはどのような思いでこの言葉を聞いたことでしょうか。

ここでパウロが途方に暮れているのは、かつてはまことの神を知らず、他の神々に奴隷として仕えていたガラテヤの人たちが、せっかくまことの神の御救いにあずかりながら、また逆戻りして、無力で頼りにならない諸霊の奴隷として仕えようとしている(8節以下)ということが原因でありました。

せっかく一人ひとりの内に福音が根付き、その成長が期待されていたのに、またもや逆戻りしてしまった。そこでパウロは言うのです。「わたしの子どもたち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(19節)。これがパウロの祈りでありました。

これはまた、教会形成に携わる者にとって共通の祈りでもあります。今日教会は様々な課題を負っています。伝道の不振、会員の高齢化、教会に通う子どもたちの減少、教会会計の問題等々、多くの課題、問題を抱えております。

しかし、パウロの祈りをきちんと受けとめるなら、教会形成に共に携わる者にとって、会員が皆高齢になっているからとか、子どもが減っているからとか、教会会計が伸び悩んでいるからといったことで途方に暮れるということではない。そうではなくて、キリストが一人ひとりの内に形づくられていないということにおいて途方に暮れるのだ、とのことをはっきりと心に刻む必要があります。

パウロは、ガラテヤの教会の兄弟姉妹に対して、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された」(ガラテヤ31節)はずなのに、その十字架のキリストがぼやけてしまっていること、あいまいな姿となってしまっていることこそが信仰の危機であると述べているのです。

主の御言葉を聞く

どうやらガラテヤの教会では、パウロが「あの者たち」(17節)と表現をするグループがあったようです。いわゆる問題グループです。教会活動においてでしょうか、あるいは他の教会員に対するお世話のことでしょうか、非常に熱心に関わっている。しかし、それは善意からではなくて、その熱心さによって、その人たちはガラテヤの人たちを自分に対して熱心にさせようとしていると言うのです。けれどもパウロは、その人たちを批判すれば、あるいは排除すれば問題が解決すると言っているのではありません。そうではなくて、「キリストがあなたがたの内に形づくられる」ことのために自らが苦しみを担っているというのです。

教会は、牧師であれ、役員であれ、信徒であれ、「あの人がどうにかならないだろうか…」とか、「あの牧師がこうだから…」ということを言い合っていて福音伝道が前進するものではありません。誰かを批判してその人の影響を取り除くことよりも、一人ひとりの内にキリストがしっかりと形づくられているか否かをパウロは問うているのです。

旧約の預言者アモスは「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き」(アモス811節)との神の言葉を取り継ぎました。牧師も信徒も、共にこの飢えと渇きを共有しつつ、全身全霊を傾けて主の御言葉を聴く姿勢が問われています。

パウロが途方に暮れていると語った根底にあることは、まさにこのことではないでしょうか。

神から愛されている

ガラテヤの教会の兄弟姉妹は確かにキリストの福音にあずかりました。「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」(9節)とあるように、このわたしが神を知っている、いや、神から知られている。そのことをこそわたしは知っている、との信仰に立ったのです。神から知られているということは、神から愛されているということと同じです。そして、神から愛されていることを知ることが信仰です。

しかも、神の愛が、み子イエス・キリストの十字架の死において示されていることを知ることです。

パウロは、自らがキリストの十字架の愛によって救われていることを深く知っているがゆえに、自ら進んでそのキリストに喜びをもって仕えたのです。

途方に暮れても行き詰まらず

パウロが語った「途方に暮れている」という言葉の元々の意味は、通路が無い、あるいは道路が無い、また川などの渡し場が無いという意味です。人と人との間に、心通い合う通路が無い、言葉は交わすが心が通い合わないという状況です。パウロはガラテヤの教会の兄弟姉妹との信仰の通路が無くなってしまっているという思いでいるのです。

そしてパウロは、「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい」(20節)と語りました。例えば、今日、様々な問題で悩む若者と出合う時に、言葉が通じないもどかしさを覚えることがあります。こちらの語調は、説教くさく、若者たちにしてみれば”うざったい”。
露骨にそのような表情をしたり、プイッと去って行く。しかしそれでも、その場に居合わせて、その言葉を聞き分け、語調を変えて話す。同じように教会では、様々な牧会の場面で、祈りをもって、一本調子ではなく、相手の思いを受けとめつつまっすぐに福音を語る。その繰り返しでありましょう。

「途方に暮れている」と語ったパウロ自身、その途方に暮れる中にこそ、伝道者として、説教者として、あるいは牧会者として自らが選ばれ、立てられていることの務めの重さと共に恵みをも覚えておりました。

この「途方に暮れる」という言葉を、パウロはコリントの信徒への手紙の中でも用いております。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。…わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(コリント二47節以下)。

「途方に暮れても失望せず」という表現は文語訳聖書では「為(せ)ん方(かた)つくれども希望(のぞみ)を失わず」とあります。人間の「為ん方」(なすべきこと、方策)が尽きても希望を失わない、神がこのわたしの身を用いて御業をなしてくださる。その希望を抱きつつ、「キリストの形成るまで」共に労苦を担いたいと願います。日本の各地に建てられているキリストの体なる教会において、主の召しに応えてまいりましょう。

   (秋田桜教会牧師/教団総会書記)

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