【4900号】メッセージ 揺り動かされるただ中で

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」《マルコによる福音書8章31〜33節》

東日本大震災から8年−揺り動かされた信仰

 救い主イエス・キリストのご受難を覚える時を過ごしています。

 キリストは、ご自身の受難と復活をはっきりと予告されました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちに教えられたのです(マルコ8・31)。

 このキリストの言葉は、ぺトロを動揺させ、信仰を大きく揺り動かしました。人間的な思いに支配されてしまったペトロは、キリストを「わきへお連れして、いさめ始めた」のでありました(8・32)。

 この時のペトロは、キリストの受難と死の予告の言葉に圧倒され、キリストが復活の希望をも語ってくださったことに心を注ぐことができませんでした。

 8年前の東日本大震災において、宇都宮教会の会堂は震度6強という地震によって激しく揺り動かされました。築50年を超える会堂の天井や壁の漆喰が剥がれ落ち、雷の落ちるような音が響き渡りました。

 しかし、動かされたのは会堂だけではありませんでした。新会堂建築の決断を与えられ、具体的に計画を進めていく中で、教会全体が信仰的に大きく揺り動かされました。そのきっかけは、礼拝堂の中に十字架を掲げるか掲げないかの議論でした。

 「礼拝堂に信仰の象徴である十字架はあって当然」という意見、「十字架は一つの偶像なのではないか」という意見、「礼拝堂に十字架がなければ伝道できない」という意見など、実に様々な意見がぶつかり合いました。

 真剣な協議を積み重ねた結果、長老会ならびに建築委員会において、見えない御言葉、すなわち語られる御言葉である説教と、見える御言葉である聖餐を中心に礼拝をささげるために、十字架を掲げないことを決めました。見えるものとしては、説教壇と聖餐卓で十分であるということでした。そして、礼拝堂に十字架を掲げない新教会堂ができました。

 しかし、その議論は献堂後も続いていくことになりました。新会堂が与えられた教会の中には、喜びと感謝の思いと共に、何とも言えない一種の緊張感が漂いました。このことを通して痛みを背負われた方々もおられました。私自身も深く悩み、悶々とした日々が続きました。

 

信仰の要の再発見

 しかしある時、こうおっしゃった方がおられました。「先生、礼拝堂に十字架がないということは、イエスさまが死に勝利してくださったということですよね。毎週、礼拝堂の扉を開けて、そこに十字架がないということは、イエスさまが十字架の死で終わることなく、その死からよみがえられたという希望が、信じる私たちに確かに与えられているということですよね」。

 私はこの言葉にハッとさせられました。そして、マルコによる福音書の御言葉を思い起こしました。婦人たちが、キリストの納められた墓の中に入った時のことです。白い長い衣を着た若者が言うのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(16・6)。

 この御言葉において、ここに「おられない」、ここに「ない」ということが、失望ではなく希望を指し示しているのです。目の前に「ある」ということにではなく、「ない」という現実の中に真理が隠されているのです。

 そうであるならば、礼拝堂に十字架がないということは、何か特異なことではなく、むしろ、キリストの復活を信じる信仰に堅く立つという教会の信仰の要を象徴するものであるのです。

 震災は、教会の歴史の中で一番深刻な苦難の時でありました。しかし神は、その苦難とそこからの会堂再建を通して、キリストの復活の恵みに立つ群れになることへと導いてくださいました。まさに「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のです(ローマ5・3〜4)。新しく教会を形成していく確固たる道筋が与えられました。

 

主の業に励む

 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の中で、キリストの復活、そして死者の復活について次のように締めくくります。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15・58)。

 パウロはここで、復活の「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを知っているはず」だと言います。「知りなさい」という勧告ではありません。パウロは、何か新しいことを伝えているのではなく、「あなたがたは知っているはずだ」と言い、繰り返し立ち帰るべき信仰の要を思い起こさせようとしているのです。

 キリストの十字架の苦難と死に対する勝利にこそ、私たちが揺り動かされないように堅く立ち続けるための赦しの恵みの源があり、福音の恵みを宣べ伝えるという主の業に励むための希望があるのです。私たちはそのことを恵みとして知らされています。

 キリストは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」とおっしゃいました。しかし同時に、「三日の後に復活することになっている」ともお語りくださったのです。

 キリストのご受難を覚えるこの時、私たちは、その先に確かに備えられている復活という勝利の希望をも知らされています。

 そのことを信じ続けることによって、どのようなことに直面しようとも、主の業に励む労苦が無駄になることは決してないのです。
(宇都宮教会牧師)

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