【4706号】メッセージ 何よりもまず、愛し合いなさい

ペトロの手紙Ⅰ 4章711節  一之木幸男

◇万物の終わりが迫っています
 この緊迫感のなかでペトロは語ります。ここでの「終わり」は同時に《神の国の完成》であり、《キリストの再臨》でもあります。主は言われます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。人の子は思いがけないときに来る」使徒ペトロはこの主のみ言葉の通りに宣べ伝えているのです。 ここで我々は問われます。「あなたはほんとうに《待って》いるか? 自分が生きている間にも《その日、その時》が来るかもしれないと受けとめているか?」という問いです。
 ◇何よりもまず、愛し合いなさい
 すべてのことに優って愛し合うことが求められています。 物事の優先順位がわからなくなった状態をパニックと言います。もしかしたら世界は、そして私たち自身は、慢性的なパニック状態に陥っているのかも知れません。第一のものは第一に、というところに繰り返し立ち返っていくことが不可欠です。 ところで《愛》は教会において繰り返し語られ聞かれる言葉です。しかし、というかそれ故にというか、しばしば観念的・非日常的に受け取られがちです。 ラルシュ共同体の創設者ジャン・バニエは次のように言います。 「だれかを愛するとは その人のもつ美しさすばらしさ、そして大切さを その人自身に教えてあげることです。」(『うつを越えて』女子パウロ会) これは観念的なものではなく、さらにすべての人に可能な道です。 大勢の人が集まる教会会議の場で、あるいはそれぞれの立場から発行されている機関誌を読むとき、しばしば、ある違和感を感じます。誰かの美しさすばらしさよりも、欠けているところを強調し、時には人格そのものを否定する態度すらうかがえます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というキリスト・イエスのみ言葉を空しいものにしてはなりません。
 ◇心を込めて
 これは「熱心に」ということであり、かつ「根気強く・絶え間なく」ということです。 その源はⅠコリント13章に「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」といわれている神の愛です。 常に祈りにおいて、神の無条件で無限の愛を受け取らせていただくことによって、互いに愛し合う生き方へと導かれていくのです。 神がどんなに大きな忍耐をもってわたしを顧みてくださっているのかを知る者が、忍耐をもって愛と思いやりの心を養っていくことへと向かわされていくのです。 
◇不平を言わずにもてなし合いなさい
 現代日本において《もてなす》と言うとき、もっぱらご馳走を振舞う意味で用いられているようです。 聖書においてそれは、旅人・寄留者を客として自分の家に招き入れることであり、旧新約いずれでも重要視されています。 アブラハムは3人の天使を、それと気づかずにもてなしました。 主イエス・キリストご自身が、もてなす方であり、もてなしを受ける方でもあります。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ253536節) またこれは、初代教会の監督に求められる資質でもありました。(Ⅰテモテ32節) もてなすことの本質は、外から来る人に手をさしのべて、自分の人生に迎え入れることです。 「不意の客を迎え入れること、それは客という他者を《わたし(たち)》のうちに併合することではない。それは、他者を自己へと同化することではなく、逆に他者の前に自己を差し出すことであり、その意味で他者との抜き差しならぬ関係にみずから傷つくこともいとわずに挿入していくということである。 …ポイントは《わたし》のイニシアティヴが放棄されているかどうかにある。」(鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書) 聖書によれば人はみな旅人であり寄留者なのですから、もてなすことは私たちの日常生活のただなかにある事柄と言えます。 《わたし》のイニシアティヴの放棄-そうです、わたしの考え・わたしの思い・わたしの計画…これらでいっぱいだったら、どこに他者を受け入れ、迎え入れる余地があるでしょう。神の霊の宿る場所すらないではありませんか。 ここでわたしたちは初めのみ言葉に戻っていきます。《祈り》へと。 祈りとは、《わたしの》ではなく、《神の》意志が行われることを求める心であり、神と他者とを、みずからのうちに迎え入れる空間を造りだすことと言えるでしょう。 
◇互いに仕え合いなさい
 「万物の終わりが迫っている」その時にあって、もう一つ求められていること、それが《互いに仕え合う》ことです。 弟子たちは、主イエス・キリストの地上での生涯の最後に至るまで、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いか」を論じ合っていました。 これがこの世の価値観であり、キリスト者にとっては、ボンヘッファーが述べているように「それによって交わりの生死が決定するようなおそるべき争い」がそこから生じるのです。 主イエスは言われます。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカ222526節) 互いに仕え合うためにこそ、神はそれぞれに賜物をお与えくださっているのです。
 ◇ただ神にのみ栄光あれ
 祈りをもって何よりもまず愛し合うこと、もてなし合い仕え合うこと、この在り方の中でイエス・キリストを通して神が栄光をお受けになります。 教会はこのことのために立てられています。 「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように。アーメン。」(八丈島教会牧師)
  20035月、旧八丈島教会と旧八丈島シャローム教会とが合併し、現在の八丈島教会となった。

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