今夏は記録的な猛暑に見舞われ、まさに「わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました」(詩編32・4)のような状況に至ったことしばしばであった。
そんな中「熱中症」で倒れる人が続出するニュースも流れ、動くことさえ危険であるかのように感じられる始末であった。
暑さの猛威はかくの如くであるのだが、教団そして教会形成にはどうしても信仰の喜びからくる熱中が必要だなんてことをふと思ったりもした。
ものごとに対し受け身で無感動、無気力なさまをアパシーというが、このアパシーが教会を襲い覆い尽すと群れは弱体化する。
特に無感動は生かされて生きる人生の意味を奪っていくのだが、福音の喜びが、この問題性を超えさせ、生き生きとした人間性を取り戻させるものだ。
かく思うと教会に足りないものは喜びからくる熱中ではないのか、伝道への熱中、奉仕への熱中こそ欲しいものだ。
教団も主を喜ぶことからくる熱中が根本にあれば、教勢低下など様々な暗い材料があろうとも、やがて再生、再建へと向かっていくはずだ。
熱中症に触発されて、主にあって熱中していく群れの形成こそ急務たることと思いを飛躍させられてしまった。
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」 (ネヘミヤ記8・10)
(教団議長 山北宣久)