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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4695号】宣教方策会議 講演1 礼拝と聖餐 聖餐を聖餐たらしめるもの

2010年4月10日

 

一日目夜のセッションでは、芳賀力氏(東京神学大学教授・東村山教会牧師)による「礼拝と聖餐」と題する講演が行われた。芳賀氏は、今回の講演の目的を、教憲・教規に照らして、日本基督教団における聖餐執行の筋道を明らかにすることであると述べ、教団信仰告白と教憲第8条を踏まえることが大切であるとの認識を示した。

教会を教会たらしめるものとしての「主の民」という共同体概念がある。功利的個人主義の時代、いやしと心の安定を求める人々は、自分の関心事だけを満たしてくれる小さな神々を求める。その中で、まことの神を主として礼拝するために集められた共同体こそ教会である。キリストの出来事を宣教できるのは教会のみであり、その意味で世に遣わされ、地の片隅へと派遣される使徒的共同体、即ち主に属する民である。

そこで、主の民を主の民たらしめるものとしての説教と聖礼典が位置を持つ。聖書的語りを現実化する説教は、主の民のアイデンティティーを確立する預言者的、使徒的語りであり、今までの自分のヴィジョンが砕かれ、神のヴィジョンが与えられる。これこそ悔い改めの出来事である。そこで、異邦人を主の民とするバプテスマによって、新しい契約の民が生まれ、主の民として養われる主の晩餐が、新しい契約の食事として備えられる。イエスは悔い改めを求めてはいないなどという主張がなされるがそれは間違いである(ルカ福音書189以下参照)。

聖餐を聖餐たらしめるものとしての洗礼がある。聖礼典には順序がある。「聖餐から洗礼へ」はありえない。聖餐は、主の民として新しく生まれた者たちの恵みの食卓である。信仰の食事としての聖餐であって、日常の食事ではない。洗礼に先立つ陪餐は、ただの食事であるから、それは聖餐ではない。制定語でもなくリタージーでもなく、聖霊によるキリストの臨在(リアルプレゼンス)こそが聖餐を聖餐たらしめるのである。神臨在にふれることは、人に自己中心性からの悔い改めを与え、主の民とする洗礼へと導く。ここに、聖餐的敬虔を盛る容器としての洗礼的実存がある。しかし、何度も崩れてしまうものであるが故に、主の民は悔い改めへと何度も導かれる。ここに、洗礼の恵みを噛みしめる聖餐の喜びの深さがある。これを他に置き換えることはできない。従って「洗礼から聖餐へ」という不可逆の順序がある。使徒言行録に於けるエチオピアの宦官の言葉がある。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」(使徒836)。信じた者が洗礼を受けることを阻むものは何もない。日本文化の特殊性や閉鎖性を理由にして、「物わかりのよい教会」が洗礼の可能性を閉じてしまってよいものだろうか。「未信者」という表現が差別的だとの理由で、「非信者」なる呼称が一部でなされているに聞くが、未だ信者ではないというのを、信者に非ず、というのでは、その位置を固定してしまうことになるのではないか。洗礼に先立つ陪餐は、救いに開かれてはいない。むしろ未来の信仰への招きを閉ざしている。明治期のキリスト者が、聖餐を重んじる気風(センス)を持っていたことを心に留めたい。

ただし「愛餐から洗礼そして聖餐へ」という順序はあり得る。その場合、愛餐の隠された土台、中心、目標としての聖餐の位置づけを明確にする必要がある。これがくずれると聖餐には向かわない。愛餐を愛餐たらしめるものとしての聖餐がある。罪人の交わりは、洗礼によってキリストの体に結ばれて、聖徒の交わりへと変えられる。愛餐のみでは悔い改めに導かれない。戒規が聖餐から生まれたことを想起するべきである。真実の聖餐のないところでは、聖徒の交わりを信ずと告白することはできない。

共同体を共同体たらしめるものとしての信仰告白と教会法がある。体は輪郭を持つものである。教会はキリストの体として、その特徴を明確にすることで輪郭を際立たせる。それは、世において旗幟を鮮明にすることであり、その中心は三位一体の神への信仰表明である。これが共同体を導く文法(法則)となる。この文法は、主の民としてのキリスト者にとって、礼拝中のみならずその後の生活においても変わることはない。さらに、キリストの体の霊的法則としての教会法がある。この法則が、体を生かしているのである。共同体をキリストの教会以外のものにしたくないのであればこれを大切にする他ない。従って、日本基督教団の諸教会は、「教憲・教規・準則」を教会法として、その法の精神を明確にし、それに照らして教会を建設していくことが求められる。法の精神とは、この場合「見えざる教会」の伝統を指している。条文に明示されているかどうかではなく、法の精神に反していないかどうかが判断の決め手となる。

未受洗者に陪餐させるという出来事は、教会の伝統においては新しい事態である。新しい事態に対処するためには、法の精神を明文化する必要もある。もちろん「陪餐会員」という信徒の定義の仕方そのものが、すでに法の精神を明示していると言えるが、さらに加えて、聖礼典執行細則を日本基督教団は定める等の具体的施策を行うべきである。     (林牧人報)

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