エフェソの信徒への手紙2章14~22節
隔ての壁を取り壊し 保科隆
平和への期待は破れ
「自分はそれまでは生きられないと思うけれども、君たちは21世紀まで生きる人たちだから」と教室で生徒たちに語った高校の教師の言葉と顔を思い出します。1960年代の中頃のことでした。米ソ対立の中で生じたキューバ危機の少し後だったと記憶しています。その後、ベトナム戦争が激化しました。今にして思うと、あの時の教師の言葉には21世紀になればもっと平和な時代がくるとの思いや期待が入り混じっていたように思います。
21世紀も今年は2010年を迎えています。1989年のベルリンの壁の崩壊からすでに20年が過ぎました。壁の崩壊で米ソ対立の冷戦の時代は終わりましたが、あのころと比べてどれだけ世界は平和になっているのかと考えます。つい先日もアメリカで飛行機の爆破のテロ未遂事件がありました。世界だけでなく、もっと小さな単位の各家庭はどうでしょうか。親子兄弟の間に平和があるでしょうか。創世記4章のカインとアベルの兄弟殺しのような、兄弟の間に憎しみがあり殺しあうような出来事も多いように思います。親と子の間にも同じようなことがあります。それでは一人ひとりの心の中は、と考えます。60年代中頃と比べて、心の中は平安になっているでしょうか。必ずしも平安であるとは言えません。「殺す相手は誰でもよかった」などという無差別の殺人事件が、ここ数年の間に何件か起きています。自分でも抑えられないような激しい敵意や憎しみが心の中に深く秘められてさらに渦を巻いており、それをぶつけるのに相手を選びません。だれしもがそのような得体のしれない敵意と憎しみの対象になりかねないのです。
キリストは私たちの平和
さて、そのような世界や各家庭や個人の心のありようを思いながら、聖書の御言葉に耳を傾けてみたいのです。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2章14~16節)と書かれています。ここの箇所とその先の17節まで主語は「キリスト」です。つまり、ここに書かれていることは、すべてキリストが何をなさったのかについてです。
まず、「キリストは私たちの平和であります」と書かれています。なぜでしょうか。それは、キリストが敵対している二つのものを一つにし、御自分の肉においてお互いの間にある敵意という隔ての壁を取り壊してくださったからです。そこにキリストの平和が与えられています。「二つのもの」とは、ここでは少し難しいかもしれませんが、ユダヤ人と異邦人の二つのものと考えられています。ユダヤ人は律法を持っていましたが、持っていない異邦人をさげすんでおりました。そして、お互いの間には長い間敵意が存在していたのです。具体的にはヘロデ時代のエルサレムの神殿の構造に示されています。神殿内部の異邦人の庭と婦人の庭と呼ばれる間には垣根がありました。そして、婦人の庭の入口には異邦人に対する禁札が建てられており、そこには「異邦人は神殿の周囲にめぐらされた垣より中に入ってはならない。これを犯す者は死をもって罰せられる」と書かれていたと言われています。また、パウロが捕らえられたのも、パウロが「ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった」(使徒言行録21章28節)ことによると記されています。それらの出来事はまさに二つのもの、すなわちユダヤ人と異邦人の間にあった越えることのできない隔ての壁の存在を示しており、もし誰かが越えようとすれば、その結果は死があるのみでした。
しかし、聖書はそのような二つの間の「隔ての壁を取り壊し」と語ります。どのようにして壁は取り壊されたのでしょうか。「御自分の肉において」すなわち、キリストの十字架において、ということです。したがって、キリストの十字架において二つの間にあった隔ての壁が取り壊されたというのです。16節に、「十字架を通して」「十字架によって」と二度も十字架という言葉が用いられているのはそのことを示しています。
十字架こそが平和への道
「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(15節)とはどのようなことでしょうか。この当時の律法は細かく分かれていて、手を洗うにしても、食事の時に皿を洗うにしても、どのようにするのかが細かく決められていました。まさに、規則と戒律ずくめの生活だったのです。
しかし、そのような規則と戒律ずくめの律法は、キリストの肉において、すなわち十字架によって廃棄されたのです。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ」(16節)とも書かれています。一つの体とは、ただ個人としての体であるだけでなく、キリストの体としての教会でもあります。教会には、ユダヤ人も日本人のような異邦人もいるのです。
また同時に、「一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」(15節)とある通り、新しい人にさせられた体でもあります。そして、そこには神との和解があるのです。
だからこそ、聖書が語っている平和は、誰がどのようにしてもたらしたものであるのか、をはっきりと知っておく必要があります。その平和は、キリストが御自身の十字架を通して成し遂げて下さったものであり、そこには、神の御子のただ一度だけの犠牲があるのです。御子キリストの犠牲によってもたらされた平和です。
私共にとって平和についての学びをすることも、平和について議論をすることも大切ですが、キリストの十字架によって人間同士の間にある敵意という隔ての壁が取り壊されていなければ、人間の努力だけではどうすることも出来ないのです。キリストの十字架を信じること、そこから平和の道が開かれるのではないでしょうか。
平和ということでいつも思い浮かぶ御言葉があります。マタイによる福音書5章9節に「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と書かれています。争いを好む人は誰もいませんし、争いがあったならばそこから逃げ出したくなります。争うのはもうこりごりと思います。しかし、主イエスは言われます。争いのある中に「平和を実現する人たちは幸いである」と。だから私共は、主イエスの語られる平和を実現するために用いられたい、と切に祈ります。
(仙台東一番丁教会牧師)