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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4690・91号】新春メッセージ

2010年1月30日

 

ルカによる福音書44044

神の国の福音を告げる 山北宣久

 

混沌を神の秩序に

新年にまず聖書を手にする。

その最初に目にするみ言葉、それは創世記 1 章。  「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」

改めて深い思いに満たされ「初めに」立ち帰らせつつ新たに遣わされる決意に至らしめられる。

この聖句に日本基督教団を重ねた先人がいる。北森嘉蔵牧師である。「教会制度の確立」という本の中でこう語った。

「教団のことを考えるようになって創世記一章一~二の御言葉は身につまされ実感させられている。教団は神のつくられた教会だと信じている。しかし闇と混沌とが無くなってはいない。天地創造のあとに闇と混沌とがある。

問題は闇と混沌を現状肯定するのではなく、混沌を神の秩序にもたらすことである。」(前掲本 1  4  6 頁)

 

神の秩序

では神の秩序とは何であろうか。それは今日教団の聖書日課たる箇所に明確に記されている。 「神の国の福音を告げ知らせなければならない。」ということだ。(ルカ4章43節)

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」との主イエスの教えのもとに生かされて生きる私たちは「神の国」と「神の義」の楕円を描きつつ、教会を形成することをもって神の秩序をもたらすのである。

その「神の国」とは「神が支配しているという事実、神の支配が貫徹している生きた状態」と私たちは受止めている。

この神の国は静的なものではなく、動的な、ダイナミックな状況でとらえられるものだ。主ご自身、同じルカ福音書の中でこう語られたと記されている。

「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(1120節)

従って、神の国というのは、人間による人間の支配が打ち破られ、神様の愛だけが支配する状態といって良いであろう。

 

動と静

神の国は動的、ダイナミックなものであって静的な世界でないと語ったが、その動的なものに与るために静的世界に入り、そこを通過することは必須である。このバランスは大切だ。

42節にはこうある。

「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。」動的に立ち向かう時こそ退くことが必要だ。

すり切れるような日々の歩みを目に見えない神との交わりによって取戻して行かれた主イエスの姿において教団の教会の、そして私たちのあるべき姿を示されるではないか。

ジョン・ウェスレーはいみじくも語った。

「神との交わりを持ち、信仰の木が下に伸びて行くなら、上に伸びる部分についてあまり心配しなくてもよい。下に成長するとともに上にも成長するから。」

 

三つの働き

人里離れた所にて神との交わりに力を得て激しい歩みを展開された主イエスは三つの働きを使命・命の使い方とされたことが分かる。「いやされた」(40節)、「福音を告げ知らせ」(43節)、「宣教された」(口語訳「教えを説かれた」)(44節)

病のいやし、福音の宣べ伝え、教えを説く、つまり奉仕、伝道、教育を福音宣教の内容とし、それを教団、教会の使命としてきた。

この三つはまさに三位一体である。つまり宣べ伝えるということの中にいやし、教えるということがある。教育的伝道、医療伝道というふうに、すべての業が福音伝道、つまり神の愛による支配、神の国の福音を告げ知らせ、混沌を神の秩序にもたらすことにするのである。

 

私あっての主

42節の後半に「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。」とある。

なるほど人々はイエスと一緒に居続けたいと思った。自分の所に主イエスを何とかとめておきたいと思った。

しかし、それは病のいやしという自分たちの利益のためだけであった。

イエスを利用してまで自分の幸福を確保しておきたいという自己中心性をはしなくもあらわしているが、その点をはっきりさせるために主は言われた。

「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」

神共にいますという神の国の福音はいつも、いつでも、誰にでも伝えられなくてはならない。

生に於ても、死に於てこそ神の愛の支配はあらゆる人にも及び、死と滅びより導き出す。

このことをこそ宣べ伝える、伝道していく、このことにあって、いやしも教えも意味を持つこととなるのだ。

伝道から切り離された教育、神の愛を伝えることを目指さないいやしや奉仕の業は永続性をもたない、このことを主は明確にされる。であるからして主はいやしをなされるにしても、神の愛の発露、そうせざるを得ないゆえにという熱き心のあらわれとしてそれをなした。そのことは40節の後半の言葉からも充分に伺い知ることができる。

「イエスは一人一人に手を置いていやされた。」

いろいろな病気に悩む沢山の病人を一挙にいやしたとは書かれていない。その一人一人に手を置いたのである。

群衆、集団を相手にして行かれた主イエスは、その中にいる一人一人を大切にし、丁寧に相対された。

キルケゴールは「五千人の給食」に触れて「主は五千人を一度に愛したのではなく、一人を五千回愛したのだ」と言った。

一人一人を受容れ愛する、それが福音的ということだろう。

 

神の国を告げる

主イエスはこうして神の国の福音を告げ知らせることを使命としておられたことが明確にされる。

そして主に従う教団は主の使命を我が使命としていく。人間の力による支配があらゆる領域を圧しているやに思える中で、神の支配としての神の国を告げ知らせていく教団、そして教会でありたい。

「日本のゆくえ」との題で矢内原忠雄は語った。

「雑草に押しつぶされないで、雑草が亡んだあとに萌え出る。そこに美しい春の山、春の野が現出する。こういうのが神の国の地上における形成課程の方式である。終りの希望をもってしっかり生きていきたい」。

かくありたい。

(教団総会議長・ 聖ヶ丘教会牧師)

 

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