刑務所において、教誨が始まる前、係官が「今日は知的障害の人が初めて希望しています」と言われた。そんな予備知識を持ちながら教誨に臨んだ。
この日は初めての教誨が2人と毎回臨んでいる1人で3人の教誨である。初めて臨んだ教誨の動機を聞いた。係官がコメントしていた知的障害の人が、両親がクリスチャンであり、日曜日はいつも教会に行っていたので、自分もキリスト教を知りたくなったと言う。教誨では聖書を輪読するが、彼は字が読めないのでパスをした。しかし、その後の懇談では積極的に質問した。
教誨を希望する人は、家族や親族の中にクリスチャンがおり、その関わりの中で希望する人が結構いる。お連れ合いの両親が信者であり、義母の葬儀はキリスト教で行われたので、心に残っていたと言われる。あるいは親族が教会に出席していたと言う。刑務所に入って、親族の生き方を理解したくなったとも。今までキリスト教が横にあり、ちらちら見ながら過ごしてきたのである。
刑務所で教誨を受ける人たちは、社会に生きるとき、何らかの状況の中でキリスト教に関わっている人が多いのである。教誨は改めてそれらの人々に手を差し伸べるときなのである。
「教会に行ってもいいの?」と驚いたように言う。何処の教会も喜んで迎えてくれるよ、と言っておいた。日本基督教団の看板を掲げている教会に出席しなさいとも。
(教団書記 鈴木伸治)