教会備え付けの讃美歌に教会員が布のカバーをつけてくれた。表紙が弱っていた物もまた充分に用いられている。よく見ると備え付けの聖書も表紙の傷んでいる物が多い。何年、何回用いられてきたのだろうか。その姿には礼拝や祈祷会の積み重ねが刻まれている。 8月11日、地震で若干の被害が出た会堂を片づけ、その状況を確認する時にも、50年を経た会堂のあちこちに主を礼拝する日々の積み重ねを強く感じたことである。ここで讃美が繰り返され、ここで祈りが積み重ねられ、ここで奉仕が続けられている。教会はここで主に生かされ、出て行って主と人々に仕えている。この日も変わることなく、と。主が教会をお建てになり、私共を祝福して用いられるのは、私共を主の再臨の日に向かわせ、また多くの人々に御自身を証されるためである。私共の働きも人生もすべて主の再び来たり給うことに結びつけられ、今日在ることの意味を持っている。
会堂も備品もその日々の積み重ねをよく表しているように思える。使われてただ古びてゆくのでなく、教会の祈りと讃美をそのままに証しているのである。そしてそれらを用いる私共には主の祝福が重ねられ、深く刻まれてゆく。私共がキリストのものであり、主の再臨に向かって歩む大切な一肢一肢とされていることが。やがて会堂も備品も新しくなる時が来よう。教会の歴史も移ってゆく。しかし積み重ねられた日々と主の祝福は確実に受け継がれて行く。
(教団副議長 佐々木美知夫)