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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4669号】過疎化が進む島根県で 出雲・松江、諸教会訪問記①

2009年2月28日

▼出雲のぞみ▼秋鹿▼松江古志原

神話の国の兄弟姉妹たち
 多くの牧師が「我が町は日本で最困難な伝道地だ」と言う。それぞれ根拠もあるだろう。戦い傷付いた体験を元に、実感を語ったのであり、嘘偽りではない。
しかし、過疎化率日本一の島根県こそが、数字的に見れば最も伝道不振の地であると、ほぼ断言できる。
人口七四万の県下に日本基督教団の教会は九、他教派の教会も少ない。九教会の合計で、現住陪餐会員二三二名、礼拝出席一六〇名、東京には一教会でこれを上回る所が少なくない。一方で、大社教の信者は全国に四〇〇万人とも言われる。
因みに人口こそ一一〇万と多いが、同じ九教会の富山県は、四五三名と三二五名で、約倍。福井県は両者の間くらい。人口六七万のお隣り鳥取県は島根の倍。
教団宣教委員会は、昨年九月十五~十六日、松江市と出雲市の五教会を訪問した。教団新報もこれに同行して、短い時間ではあったが、この地で働き生活する信仰者・伝道者の声を聞くことが出来た。祈りに覚えていただければと願い、訪問記を掲載する。
四〇年を要した会堂建築
出雲のぞみ伝道所の開設は一九六三年、普通の民家の借家住まいを脱し、会堂を建築したのは二〇〇五年、四〇年以上の時を要した。会員による特別献金開始からでも二〇年。最初の専任牧師を迎えたのは一九八六年、現在は四代目、兼牧その他の形で協力した教師の人数はもっと多い。長い長い時間がかかった。長い長い間 、祈りが献げられ続けた。そうでなければ、出雲の地では事は成就しない。教区からは謝儀や家賃の援助という支えがあり、山陰東分区は出雲が決断した直後に、後援会を設けて協力した。
建築に際して、出雲駅から歩いても遠くない場所から、車が無ければ通うのが大変な郊外地へと移転した。しかしこの場所は、小学校に近く、真新しく小綺麗な会堂を訪ねる大勢の子どもたちの顔がある。近隣に新たに幼稚園が出来るそうだ。二〇〇五年に赴任した齊藤善子師は、古い歴史を持つ町の新興住宅地に立てられた教会 が、子どもたちと共に成長して行くことを願い、教会の未来像を思い描いている。
九月十四日の週報には、隠岐で開催される分区信徒大会の案内が掲載され、消息欄には、北海道に転居した会員が興部伝道所に出席していることに触れられていた。礼拝出席十一名の小さい教会だからこそ、地域・分区は勿論、全国諸教会との交わりの中で命を持っている。
会堂建築記念小冊子の表題は「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」最初の頁に出雲のぞみ教会役員会による巻頭の辞がある。見出しは「私たちは見た、神の御業を」。後々までも教会員の心の支えとなる、なんと幸せな体験だろう。
奉仕と献身によって立てられ
秋鹿教会は、宍道湖の北側を、松江から出雲方面に十五キロ、湖岸に近い農漁村地帯にある。
丘の上に建てられた、絵本に出て来るような小さな美しい会堂で懇談の時を持った後、最寄りの教会員宅を訪問した。下の写真をご覧いただければ細かい説明は無用だろう。加藤家は、当主が旧秋鹿村の村長や地場企業の社長を務めた土地の名家。この家から多くの信仰者、献身者が生まれた。秋鹿教会自体は小さくとも、その流 れを汲む人々は全国に散らされ、各地で信仰生活を守っている。
秋鹿に限らず、農村部の教会は、一人の篤信家によって建てられ守られることが多かった。ややもすれば何々家の教会になってしまう。その功罪という言い方がなされるが、これらの家、人の存在なしには、その地に教会が存在できなかったこともまた確かだ。
かつて新卒の女性牧師がこの地に赴任し、二〇年近くを過ごした。隣家まで数百メートル、夜は真っ暗闇、車もなかった。月に二回ほど単線一両だけの電車に乗って松江に出、先輩牧師と共に学ぶことが唯一の楽しみだった。「青春の全てを献げた」と、一〇年ほど前に偶然会った時、この牧師は涙した。勿論無念・後悔の涙では ない。懐かしい日々を追憶する涙だ。
信徒の奉仕と、献身者の犠牲的な働きの上に、教会は立てられている。
田園の独特の雰囲気素朴な交わりに惹かれてか、敢えて松江や出雲など遠方から通う教会員も少なくない。二〇〇八年六月に就任したばかりの今井靖清師もその一人か。
五〇年を経ての教団加入
 松江市内に入り、松江古志原教会を訪ねた。
戦後間もなく、教団で按手を受けた角井義雄師の開拓伝道によって生まれた。角井師は島根県の福祉関係の役人として勤務しながら伝道・牧会に当たった。既成教会の常識・通念に拘らない極めてユニークな教会形成を貫くために、五〇年単立を続けた。一方、長く松江市内牧師会の会長として、牧師たちの交わりの中心であった 。戦災孤児を引き取り、他人の借金の保証人となり莫大な借金を負うこと三度、桁外れの人情家、小柄な豪傑だった。「人間は型破りかも知れないが、信仰的にはごくオーソドックス」を自負していた。晩年、単立の限界を痛感する。後継者を得るためにも、教団加入を指向した。その準備が整えられない内に病に倒れ、召された。?
真の後継者は、残された信徒たちだった。二〇〇五年、教団加入が成り、牧師個人宅と教会堂が混然としていた敷地が整備され、教会の体裁が整えられた。若い鎌野真師が赴任、新しい歩みが始まった。それこそが、角井師の祈りであった。
次号(松江教会、松江北堀教会)に続く。
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