主にまかせよ
主にまかせよ 汝が身を
主はよろこび 助けまさん大学四年になる時、学びに意欲を失い、一年間休学し、大学のあった北海道から帰省して京都の実家で過ごした。
生きる目的が見いだせなかった『自分病』のただなかにいる時、信仰の先輩が、この讃美歌を歌い祈ってくれた。自分中心の思いと甘えを諭され、神様に心を向ける必要を教えられた。
家業を手伝う中で復学への思いを固めていったが、心の闇は消えることがなかった。
そんな中出席した無教会の聖書研究会の中で、自分の罪深い歩みを告白し、主の十字架の贖いと赦し無しに歩めないことに気付かされた。その経験を通し、信仰を持つ両親と祈りを合わせ、礼拝にも出席するようになった。
復学、卒業後も無教会の集会や教団の教会の礼拝に出席していたが、職場は日曜日も交代で日直があり、自分の趣味にも心奪われ徐々に神様から遠のいてしまった。
そのような中で、妻と出会い、結婚式を教会で挙げることとなったが、結婚の日が近づくにつれ、思いが向かったのは洗礼のことだった。罪赦され主に生かされてある自分と思うのならば、まず洗礼を受けるべきではないか。祈りと思案の末、当時無牧だった帯広教会に洗礼志願をし、結婚準備と洗礼準備を一緒に役員がしてくだ さった。
受洗後間もない頃、苦難の時に、神様は多くの方の祈りと支えとを与え、逃れの道を備えてくださった。主にまかせ、主に委ねる時、「たといそうでなくとも」、主は良き目に見える解決を与えてくださった。
洛北教会に導かれ、御言葉の養いを受け、主のものとされた者として、主を信じ、主に委ねるべきことを、礼拝と教会の群れの中で教えられた。
家族共々、神の家族の一員としての喜びを味わいつつ歩んでいる。