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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4660号】メッセージ 使徒言行録18章9~11節 わたしの民が大勢いる 上田光正

2008年10月11日

励ましの言葉

コリント伝道で失意の中にいたパウロは、主からの御言葉によって勇気づけられました。

「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ』。」(使徒言行録18911

「この町にはわたしの民が大勢いる」。この言葉は、あらゆる説教者の書斎の壁に大きく記されるべきだ、とある人が言っています。なぜなら、この励ましの御言葉がなかったなら、コリント教会は生まれなかったに違いないからです。この御言葉は、今日の私どもにも非常に多くのことを語りかけています。

コリントの教会は、原始教会の中でも最も規模の大きい、そして、最も活発な教会となりました。私どもはパウロが書いたコリントの信徒への二つの手紙から、この教会の内部にも様々な問題があった、ということばかり語りたがります。しかし、むしろ、この教会の存在の意義や周囲に与えた影響の大きさをよく考えなければ、見方が偏ります。パウロはこの教会を愛し、この教会に宛てて、実に四通もの手紙を書いているのです。

コリントの町は、アテネとは比べものにもならないほどのマンモス都市でした。「ギリシャの星」と呼ばれ、繁栄を極めていました。しかし、この町は同時に、様々な悪徳と虚栄の町としても、悪名が高かったのです。

パウロがこの町に伝道に来たのは、アテネ伝道が失敗したからのようです。そこでパウロ自身が受けたダメージも、決して小さくはなかったようです。あの気の強いパウロが、「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」(一コリント23)と言っているのです。そういうパウロの心細い限りの精神状態に対して、他方、コリントの町は、「神など要らない」という世俗的精神に漲り溢れていました。それは、今日の私どもの周囲にも満ちているものです。神がいてもいなくても、時間は同じように過ぎて行き、社会では同じように善いことも悪いことも起こり、人間は同じように年を取って死ぬ。神を慕い求める人は一人もいない。お前さんがどんなに神の言葉を語っても、この町では虚しいだろう。きっとお前さんはそのことを知るようになる。

このような世俗的精神は、どうかすると私どもキリスト者の心の中にも忍び込み、私どもを無力感や絶望感に陥れます。この時も、それはまるで高くそそり立つ断崖絶壁のようにパウロの前に立ちはだかっていたのです。

パウロの覚悟

パウロは余程の覚悟を決めたに違いありません。その決意の程を述べた言葉が、次の有名な聖句です。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(一コリント118

彼はこの時、もしコリント伝道に失敗したら、ヨーロッパ伝道全体が失敗したことになる、とさえ思っていたに違いありません。

果たして、パウロはこの町でも、ユダヤ人たちの反対を受け、会堂から追い出されました。幸いにも、ティティオ・ユストという人が自分の家を開放してくれることになりました。

ところが、ユストの家は、こともあろうに、ユダヤ人会堂のすぐ隣にあったのです。これこそ神のご計画とも言えますが、同時に、パウロたちは非常に厳しい戦いのるつぼの中に投げ込まれたことになります。パウロはまさに背水の陣を敷き、連日のように祈り、御言葉に専心し、日曜日には切々と、訴えるような気持ちで御言葉を語り続けました。

この世俗的な町コリントの人々に、福音をそのままぶつけるという果敢な戦いが続きました。

見えない神の民

そんなある夜のことでした。主は幻の中でパウロに、冒頭の御言葉をお語りになったのです。

「この町には、わたしの民が大勢いる」

パウロはこの御言葉を、調子のよい、伝道の上向きの時に、聴いたのでしょうか。どうも、そのようには思えません。むしろ、パウロの気持ちからすれば、全く正反対だったのではないでしょうか。「恐れるな」ということは、パウロが依然として恐れに満ち、いつ何時ユダヤ人が彼を襲って来るかも知れない、という戦々恐々の日々を過ごしていたからです。「語り続けよ」というのも、彼の腰は必ずしも据わっていなかったからでありましょう。語っても語っても無駄であるように思われるとき、私どもは御言葉そのものに対して、しばしば虚しさや絶望感を抱きそうになります。しかし主は、「この町にはわたしの民が大勢いる。だから、語り続けよ」とおっしゃるのです。なぜ大勢いると言えるのか。理由は分かりません。ただ「大勢いる」、と言われるから、信ずるより他にありません。主が預言者エリヤに「わたしはイスラエルに七千人を残す。」(列王上1918)と言われたときにも、エリヤの目にはこの七千人の信仰者は、全く見えません。パウロの場合、教会に来ている人々は、恐らくこの私どもの礼拝の半分にも満たなかったのでありましょう。しかし、この目に見えないコリントの人々のことを、主は、「わたしの民」と呼ばれます。そして、「わたしの民は大勢いる」とおっしゃるのです。

この時、パウロは気が付いたのです。伝道をしているのは、この自分ではなくて、神である、と。神が自分の中で共におられて、御自分の民を捜しておられるのだ、と。従って、伝道者の仕事は、ただこの大勢いるはずの神の民を掘り起こし、しっかりした信仰を持って貰うよう、ひたすら福音を語ることしかない、と。

テルトゥリアーヌスという教会教父は、「人の魂は生まれつきキリスト教的である」と言っています。どんな人でも、やはり死ぬ時にはキリスト教の信仰を持って死にたいのです。私どもは、そう確信して差し支えありません。その人々に福音を宣べ伝えることが、私どもの光栄ある務めです。

それ以来、パウロは「一年六ヶ月の間ここに留まって、人々に神の言葉を教えた」、とあります。「留まって」とは、「腰を据えて」、という意味です。そして、実に一年半という長い期間をここで伝道することになったのです。このようにして、コリントの教会が建てられたのでした。

(美竹教会牧師)

 

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